四国八十八ヶ所遍路◎  2020年9〜10月 その1

1番札所
霊山寺【 りょうぜんじ】 阿波発心の道場 礼拝



徳島県鳴門市大麻町板東 霊山寺本堂 2020年9月24日・撮影



四国八十八ヶ所お遍路の旅に出た。
コロナの影響で、延び延びになっていたが、このまま待っていたら冬になっちまうぜ、いや死んじまうぜと、天気が良くなりそうな気配を見計らって、とにかく出掛けた。
もちろん歩き遍路の「順打ち」で「通し打ち」。おまけに野宿とテント泊と時々遍路宿という貧乏遍路である。いうなれば、身のほど知らずの年寄りの冷や水、さすらいの“老いぼれ巡礼”なのである。さて、どうなりますことやら…。

  *  *  *   

徳島への飛行機は、東京からはJALとANAしか飛んでいない。格安航空(LCC)は就航していない。新幹線なら大阪や神戸でバスに乗り換えても結構いいお値段になる。だから、安く徳島へ行くには、結局夜行バスしかない。だが、9月下旬時点では、その夜行高速バスがほとんど運行していなかった。乗車1週間前あたりだと少しは出ているようだったが、2,3日前だと大阪あたりでの乗り換え便しかない。どうも運行状況がよくわからない。たぶん運行便数が極端に少ないのだろう。ネットであちこち検索してみたら、渋谷発徳島行の夜行直行バスがあった。徳島バスの運行で7500円だった。値段ですぐ決めた。
渋谷の街は最近とんと行ったことがない。ビルの5Fが乗り場だというが、よくわからない。そこで前日に雨の中、用事をつくってわざわざ下見に行った。という念の入れようだった。気合いは十分入っていた。

何日かかるかわからないが、とにかく歩き遍路で四国八十八ヶ所の霊場をすべて巡拝し、四国を一周するのだ。そして何かが見えてくるかもしれない。何かに気づけるかもしれない。何かがわかるかもしれない。もしかしたら、何かを会得して、なにか小さな悟りのようなものを得られるかもしれない。そんな殊勝な思いを他愛もなく広げていた。

当日、渋谷マークシティには早く着きすぎた。発車まで2時間もあった。狭い待合室で、マスクをしたまま缶ビールを飲み、弁当を食べた。そして、いつもの白い小さなMP3プレイヤーで、好きな音楽を聴いた。旅の始まりはいつもこの曲だ。「花のサンフランシスコ」、1967年、スコット・マッケンジー。 ♪If you're going to San Francisco … と、澄んだ声とギターの音が響く。
21:40、夜行バスはビルの5Fを滑るように発車した。座席は3列独立シートだから、心配はしていなかったが、やはり夜行バスは早くも難行苦行の修行だった。足を伸ばす空間が微妙に足りない。背の倒し具合が中途半端で腰というかケツが痛くなる。要するに眠れないのだ。年寄りの乗るものではないことは百も承知していた。でも背に腹は代えられない。
実際には眠っていたのだろう、早朝6:05、バスは徳島駅前に着いた。雨は降っていなかったが、空はどんよりと曇っていた。
JR高徳線普通列車で、徳島駅6:39発、5つ目の駅の板東駅6:57着で下車。おお〜懐かしい。若い男のバックパッカー風歩き遍路を一人見かけたが、ほかにお遍路さんはいなかった。小さな町はまだ静かだった。
わたしはおもむろに歩き出した。いよいよ歩き遍路、通し打ちが始まったのだ。いつの間にか、こころの中で、なにかむにゃむにゃと念じていた。
 
 *

第1日目は、飛ばしすぎないように心掛けた。1番から10番あたりまでは、お寺の間の距離が短いから、お参りする回数が多くなり、そこに時間がとられる。だからあまりのんびりもしていられない。むずかしいところだ。毎度のことだが、「急がず、焦らず、慌てずに、心静かに落ち着いて」をモットーに行くことにした。腹式呼吸である。
1番霊山寺(りょうぜんじ)で新しい納経帳を買い求めた。今回は、お寺の絵が入っていない大判のものにした。それが安かったから。それから、白い専用の頭陀袋(ずだぶくろ)も欲しかったのだが、これ以上荷物を重くしたら、大変なことになるだろう、だからやめた。後から考えれば、賢明だった。というより、今回はわが息子からプレゼントされたノースフェースの黒いウェストバックをこの日のためにおろしたのだから。
初日は結局、1番霊山寺、2番極楽寺、3番金泉寺(こんせんじ)、4番大日寺、5番地蔵寺の5寺を打った。今夜の宿は決めていなかったが、神宅(かんやけ)のヘンロ小屋あたりを予定していた。ところが、それらしいところに着くと、なんと小屋の中には折りたたみ椅子が雑然と投げ込まれていて、畳も入り口に立てかけてあり、バリケード封鎖状態。ああ! やってないよ! 初日から早くも宿無しかよと思ったが、裏手の家の方でうろうろしている人がいたので、声をかけてみた。
「ヘンロ小屋、やってないんですか?」
「お遍路さん来ないから、閉めたまんまだよ」
「いやー、困ったなあー。何とか泊めさせてもらえませんかねえ」
おじさん、ちょっと考えて、
「かたずけりゃあ、泊まれるよ」 と言ってくれた。
やっぱりそうだったのだ。長年このヘンロ小屋を管理している畳屋の親父さんだったのだ。
うろうろしていたのは私のほうで、親父さんはそれを心配して何気に見ていたようだった。
まず、椅子を1つずつ全部外に出し、畳をベットのようにきちんと重ね、なんだかわけのわからないようなものを隅のほうに寄せて、何となく1人分の寝床はできた。でも、こう言っては悪いがホコリがすごい。見れば、ちゃんとほうきが置いてあるではないか。やはり掃除だな…。労働だな…。
寝る場所が出来上がったら、いい気なもので、急にビールが飲みたくなった。近所の別の親父さんも、もう1人加わっていた。話の成り行きから、「ビールでも飲みますか?」 と聞いてみたら、飲むとは言わない、かといって飲まないとも言わない。実に曖昧に空を見たりしているのだ。要するにそういうことなのだ理解して、オイラは近くのといっても片道10分ぐらいのコンビニに大急ぎで買い出しに行ったのだ。その時の、もう1人の親父さんの道の教え方の丁寧なこと…、また畳屋の親父さんときたら、「安い方のビールでいいんだからな」ときた。

発泡酒6缶とつまみも買ってきた。「どうぞ」と勧めると、畳屋の親父さんは、グビリとうまそうにやった。「ビール飲むの久しぶりだなあ」と言った。もう1人の親父さんは車で来ていたから、遠慮なく頂いておくよと、自分の前に確保した。爺さん3人の宴は静かに盛り上がった。どんな話をしたかというと、どうもよく思い出せない。そのくらい何ともいえないまったりした楽しさだったのだ。ビールも空になったころ、ポツリポツリと雨が降ってきた。
親父さんは、「長いことやってきたが、お遍路からビールごちそうになったのは、初めてだなあ〜」と言ってくれた。
そして、「おれは向かいのあの家にいるから、何か困ったことがあったら、呼んでくれていいからな」と何度も言ってくれた。親父さんは古い家に1人で寝泊まりしているようだった。
夜中に雨は本降りになったが、元々はこの小屋には壁がないのだが、親父さんたちが発泡スチロールや畳で壁をつくり、雨風が吹き込まないようにしてくれてある。おかげで、歩き遍路の記念すべき第1日目は、無事雨露をしのぎ、畳の上で安眠できた。
こんなわけだから、夜に1日の遍路の記録を書いておくなど、とてもおぼつかない。


 ヘンロ小屋44号 神宅(かんやけ)(中に敷かれた畳の上で眠れる。)



徳島県板野郡上板町神宅 2020年9月25日朝・撮影


 *

2日目の朝は、小雨だった。さっそく超軽量折りたたみ傘が役立ってしまう。
今日は、6番安楽寺、7番十楽寺、8番熊谷寺(くまたにじ)、9番法輪寺、10番切幡寺までは打ちたい。この辺は長閑な田園地帯や上り下りの少ない里山の小道を行く。昔からの遍路道の雰囲気が残っていて、歩きやすいし、気持ちがいい。コンビニやうまいうどん屋があるからといって、広い県道12号やバイパス道路は歩かないほうがいい。車の交通量はけっこう多い。
また、10番切幡寺は打戻りになり、標高も150mほどあるので、門前の店や旅館に荷物を預けていくのがいい。私は前回親切に預かってくれた須見光栄堂に、前回のお礼も言ってまた置かせてもらった。今回は持って登ろうなどという気は毛頭なかった。とにかく荷物が重いのである。
できるだけ軽量化したとはいえ、テント(自立型ツェルト)、シュラフ、エアーマット、コンロなどの炊事道具、簡単な食料、そして着替類を持ってきたのだ。総重量は怖くて計らなかったが、とにかく私には荷が勝っていた。だから、無条件に預けていくことにしていた。

さて、今夜の泊まるところだ。ベストは鴨の湯の善根宿で、無料で泊まれるし、温泉も割引で入れる。だが、ちょっと遠い。近いところではやはりヘンロ小屋空海庵・切幡が無難かなあ〜と考えていたら、私の横に車がスーッと止まった。なんだろう? 何かやらかしたかな?
「今日はどこまでですか?」と聞かれた。
「まだ、決めてない」
「だったら、わたし“うどんの八幡”の息子ですが、うちに泊まってもらえませんか」
「でも…」
「素泊まり料金で、食事をお接待しますよ! どうですか?」
(うむ、それはいい話だ、でもオイラはテント背負ってきた歩き遍路だからなあ〜、ああ、はやくも甘い誘惑が、迷うう〜)
でも、オイラは心を鬼にして、「テント持ってますから、すいません〜!」と断った。
歩き遍路2日目にして旅館に泊まるようでは、この先が思いやられるのだ。
だが、私は鬼の心とは裏腹に、とっさに全く逆のことを言ってしまった。予定していなかったことを言ってしまった。
ソフトで礼儀正しく、感じのいい誘いだったからなのだろうか、それとも、1人でも今夜の泊まり客を連れて帰らなければという必死さがその若者から感じられたからなのだろうか。
心にもない全く逆の言葉が口をついて出てしまったのだ。なぜだ? せっかくのお誘いというかお接待を断ってしまって申し訳ないという心理がはたらいたのかもしれない。
「後で、うどん食べに行こうと思ってたんですよ。約束はできないけど、よろしく〜」
車の若者は深々と頭を下げて、走り去っていった。
このとき、今夜の泊まり場所は自ずと決まった。うどん亭八幡(やわた)とヘンロ小屋空海庵・切幡は目と鼻の先、歩いて3分なのである。ヘンロ小屋で寝る場所を確保し、うどん亭八幡へ行って夕食をとり、後はヘンロ小屋に戻って寝るだけ。実に楽で安上がりな段取りである。
ヘンロ小屋にほかのお遍路さんはいなかった。2階にテントを張り、うどん亭八幡へ行った。今夜はビールはやめにしておこうかなと思ったが、広くて明るい店内に入ったとたん、気持ちはコロッと変わった。

今日は一応20kmくらいは歩いたのだから、1人で、いやお大師さんと二人で“お疲れさん!”の乾杯をやってもよかろう。生ビールと名物の具だくさん八幡うどんをたのんだ。
ビールを持ってきた女の人に、「さっき、こちらの息子さんに会って誘われまして、食べに来たんですよ」と告げた。
しばらくしたら、白い調理服の男性がニコニコしながら出てきた。確かに昼間の男性ではあったが、若者とは言い難いような歳にも見えた。若旦那なのだろう。いろいろ話してから、若旦那は、「ちょっと待っててくださいね」と言って戻った。私がうどんを食べ終わるころ、何か持って現れた。タイのカマ焼きだった。
「どうぞ召し上がってください」と言う。「これは日本酒だね」と、1本常温でもらった。酒も肴も旨かった。いい気分でヘンロ小屋に戻ると、後はまさに寝るだけだった。


 ヘンロ小屋空海庵・切幡 (2階建てで見晴らしがいい。)



徳島県阿波市市場町大野島 2020年9月26日朝・撮影


 *

3日目は、いよいよ吉野川を渡る。“四国三郎”の異名をもつ日本三大暴れ川の一つである。とはいっても橋はちゃんと架かっている。別に今では大井川でも、矢切の渡しでもない。ただ橋桁がかなり低いだけだ。見慣れない者にとってはこれで大丈夫なんだろうかと思いたくなるが、大丈夫なのだそうだ。潜水橋というそうで、大雨や洪水のときは橋が水没し、かえって橋が流されないようになっているのだそうだ。見たところ川はそんなに広くも急流でもない。ここは中州というか川中島になっている。最初の橋が大野島橋、川中島の善入寺島(ぜんにゅうじとう)に入って、次の橋が川島橋。かつては人が住んでいたそうだが、今は畑が広がり、ちょうど彼岸花の赤い花が一面に咲いていた。だが、本当のことをいうと、ここは帰化植物の宝庫になっていた。
今回の遍路では、できるだけ前回とは違う遍路道を選ぶことにした。遍路道といっても1つだけではなく、2,3通りあるところは多い。この吉野川の渡りもそうで、前回は大きな阿波中央橋を渡って、橋のたもとのゲストハウスに泊まり、鴨島に出た。今回は潜水橋を渡って善入寺島に入り、鴨島を通らずに11番藤井寺へ向かうコースをとったわけである。こういう臨機応変のコース選びができるのも、テントとシュラフを持って来たからだろう。



川島橋 (潜水橋、沈下橋)



徳島県阿波市市場町大野島 川島橋 2020年9月26日・撮影



善入寺島(ぜんにゅうじとう)  ヒガンバナ【 彼岸花



徳島県阿波市市場町 善入寺島 2020年9月26日・撮影





  11番 藤井寺(「焼山寺みち」入り口、右が本堂)



徳島県鴨島町飯尾 2020年9月26日・撮影


11番藤井寺を打つ。本堂左横の「焼山寺みち」に入り、12番焼山寺(しょうざんじ)をめざす。遍路道は山道に入り、急な登りになる。いよいよ“遍路ころがし”といわれる難所は、あえて山中で泊まることにした。

鬱蒼とした木々の中に長戸庵があり、さらに1時間ほど登ると薄暗い林の中の柳水庵に至る。柳水庵から5分ほど下の明るく開けたところに、立派な遍路休憩所があり、名水も引いてある。電灯もあれば、コンセントもある。ここに泊まりたかったのである。



 長戸庵



徳島県吉野川市鴨島町敷地 2020年9月26日・撮影


 柳水庵



徳島県名西郡神山町阿野松尾 2020年9月26日・撮影



 柳水庵下の休憩所



徳島県名西郡神山町阿野  2020年9月27日朝・撮影



柳水庵の下の休憩所には、午後4時半ごろに着いた。先客はおらず、私1人だった。ジェットボイルで湯を沸かし、焼酎のお湯割りを飲む。温かい味噌汁をつくり、買ってきた弁当を食べた。静かだった。静か過ぎる。
部屋の隅の卓袱台の上に雑然とパンフレットや本が置かれていた。見るともなしに見ると、何となく見覚えのあるような文字、聞き覚えのあるような言葉が目に留まった。
なぬっ? ぬっ! もしかしたら? えっ! まさか …
本の表紙に、「うちわへんろ」の文字か見えた。“うちわへんろ”とは、あの人のことか?
あの時のあの人。左手に団扇を持ってくるくる回しながら踊るように歩いていたあの人。
あまりにも固有というか、他にはないような書名だから、多分そうだろうと思って本を取ってみると、まさにその通りだった。
ご本人が言っていたように、四国遍路の旅行記というかエッセーをちゃんと1冊の本にまとめて出版したんだ。すごい! 立派だ! 副題に、《世界一の足旅「お四国」通し打ちにチャレンジ!》 《勉強なし・行き当たりばったり》 ともある。
本の中をぺらぺらめくって、自分に関係ありそうなところを開いたら、またまたびっくり、たまげたぜ。オイラが写真入りでバッチリ紹介されているではないか。善通寺で会ったときのことや話した内容が、かなり具体的に書いてある。オイオイ、ちょっと書き過ぎではないのか、と思うくらいに書いてある。
ちょっととぼけたようなおかしみのある人だったが、ちゃんと私のことを取材していたのだ。
本は遍路が終わって帰ってきてから注文して読んだのだが、私が出会った外国人なども登場していて、懐かしく楽しく読めた。
それにしても、これだけまとめて、本にしたのは大変だっただろうな。
B6判236ページ、ソフトカバー付きで、本紙もいい紙を使い、モノクロだが写真もいっぱい入った立派な本である。定価1200円で、ISBNコードも取っている。これはかなりお金もかかっているだろう。


 *


4日目12番焼山寺を打つ。遍路転がしを2日に分けて登るのだから、かなり楽になるだろうと思っていたのだが、そうは問屋が卸さなかった。登りはやはりキツイ。しかもこのコースは上り下りが多い。荷物が重い。息が苦しい。足がつりそうになる。足の豆がつぶれて痛い。歩数を数えながら108歩歩いたら立ち止まって一息入れる。そんな子供みたいなことをしながら、遅々とした歩みが続く。そして歩くペースはどんどん遅くなる。
それもしょうがない。とにかくゆっくりでもいいから歩くことだ。ただ歩くだけ。そう自分に言い聞かせて歩いた。
歩き遍路は、最初の3,4日が一番つらいとはいう。体も慣れていないし、荷物もまだ重い。そして、自分では意識していなくても、どことなく力みが入っているのだろう。



 浄蓮庵(一本杉庵) 大師像



徳島県名西郡神山町下分 2020年9月27日・撮影


7時半ごろに出発して、巨杉と大師像が迎えてくれる浄蓮庵(一本杉庵)(標高745m)に9時に着いた。いったん下って左右内(そうち)の集落にはいる。そこからまた急坂を登り、標高700mの焼山寺にやっとの思いで着く。11時半ころだった。ずいぶん時間がかかってしまった。

(どうしてこんなに大変な思いまでしてお遍路するのだろう…。)




 12番札所 焼山寺【 しょうざんじ



徳島県名西郡神山町下分 2020年9月27日・撮影




それにしても、歩き遍路に全然会わない。人の気配がしない。遍路道に人がいないのだ。焼山寺でも、車遍路や団体遍路のお遍路さんも数えるほどしか見かけなかった。
やはり、新型コロナウィルスの威力は絶大だ。東日本大震災の後は、“自粛”とはいっても、お参りする人はかえって多かった。あれとこれとは違うのか?
この焼山寺へのコースは、山の中なので、食べ物を売っている商店やコンビニは一つもない。食料を十分に買い込んでくれば、荷物は重くなるので、極力少な目にしてきた。非常食は、ナッツと砂糖と乾燥米とお茶漬けの素とインスタントラーメンとつまみ鱈だけしか持ってこなかった。(それにしては多いなあ〜)
焼山寺で昼になった。ああ、腹減ったなあ〜。飯やパンはもうない。お寺の人に尋ねると、食べ物は何も売っていないそうだ。清涼飲料水の自動販売機にカロリーメイトが入っているよと教えてくれた。こんなの初めて見たが、助かった。2箱買って1箱食べた。だが、あまり腹はふくれない。
焼山寺を過ぎると、衛門三郎の伝説で有名な杖杉庵(じょうしんあん)に着く。のんびりと休む。
前回ここを通ったときは、もう真っ暗になっていて、道もよくわからず、泣き出したいくらいだった。
長者衛門三郎は
托鉢に来た僧を追い払い、鉄鉢をたたき割った。鉢は8つに割れ、その後8人の息子が次々に死んでしまう。衛門三郎は僧が空海・弘法大師であったことを知り、改心し四国霊場をまわって大師を探す。21周目にやっとこの地で大師と会うことができ、謝罪する。そしてもう一度生まれ変わって功徳を積みたいと願い、息絶える。
大師は石に「衛門三郎」と書いて手に握らせ、再来を祈願する。数十年後、領主河野家に男の子が生まれた。握った手を開いてみると、衛門三郎とかかれた小石を握っていた。この石は51番札所石出寺の縁起に深く関わっているという。
わたしが名前を書いて納めた小さな丸い石は、今も石出寺にあるのだろうか…。


 杖杉庵(じょうしんあん) 衛門三郎と弘法大師像



徳島県名西郡神山町下分 2020年9月27日・撮影



杖杉庵を過ぎると、遍路道は再び山道に入り、左右内谷川へ向かって下る。昼飯がカロリーメイトだけでは、さすが腹が減ってどうしようもない。予期せず田中食堂という大きな食堂があったので、入ってみると、やはり休業中だった。
奥から出てきた女将さんは、「すみませんね。いまは団体のお遍路さんの予約があるときだけ開けているんですよ。」と言った。
この辺で、食べるものを売っている店か食堂はありませんかと尋ねると、ちょっと考えてから、「…今はないと思いますが…」とのこと。
私は困り果てて、「うむー」なんて言って、出してくれた一杯のお茶でぐずぐずしていると、女将さん何を思ったか、急に「家のうどんがありますから、それでよかったらお接待しますから…」と言ってくれた。
私は口では、「それは申し訳ないから…」なんて言いながら、内心ここで食いのがすと、もしかしたら今日は飯なしの大変なことになりかねないと思い、お言葉に甘えた。
温かくておいしいうどんだった。私がよっぽど腹をすかしていたように見えたのか、ちらし寿司も出してくれた。こちらもおいしくて、本当にありがたかった。
でも、考えてみれば、休業中の食堂にいきなり飛び込んで、お接待の食事をごちそうになるなんて、厚かましいというか、図々しいにもほどがある。
私はこの先の玉ヶ峠と神山ヘンロ小屋のことも少し聞いた。
「お店はないし、夜になれば真っ暗なところですよ。」と、女将さんは心配そうな顔をして言った。
私は何度もお礼を言って、ポケットに入っていた500円玉と100円硬貨2,3枚取り出して渡そうとしたが、女将さんは絶対に受け取ろうとしなかった。私は黙ってテーブルの上に置いて外に出た。そうしたら、女将さんはサッと硬貨を手に取って、「困りますよ、だめですよ。お接待ですからね。」と私の手に握らせた。
その時、ちょっと手が触れた。間近に見た顔がどことなく誰かの面影に似ているような気がした。

すぐ先にある売店のすだち館は、去年から閉店していることは知っていたが、やはり閉まっていた。その先の旅館のなべいわ荘はやっているものとばかり思っていたが、休業の張り紙がしてあったので驚いた。
この辺は歩き遍路にとってはいわゆる山中の要所なので、古くからの店や宿がなくなると不便だし、寂しいものだ。
玉ヶ峠への分かれ道に着たのは午後2時を過ぎていた。今回も玉ヶ峠コースは諦めるしかない。楽な神山温泉コースにした。あと4kmほど歩けば着く。
今日で遍路も4日目だ。ああ、風呂入りてえ〜!

「道の駅温泉の里神山」という名称だから、てっきり道の駅の中か隣接して温泉があるものとばかり思っていた。ところが、行ってみると温泉がない。
買ってきたばかりで、使い方もまだよくわからないスマホで地図検索すると、少し離れたところに「ホテル四季の里&いやしの湯」というのがある。川向こうの曲がりくねった道を10分ほどは歩かねばならない。初めての人にはちょっとわかりにくい感じだった。
さて、どういう作戦でいくか考えた。道の駅に平和的に泊まるには、やはり極意というかコツがある。まあ、当たり前の配慮ですね。

まず、1.職員がいる夕方5時までは絶対にテントを張らないこと。朝は7時前には必ず撤収する。
2.テントはできるだけ目立たない所に張る。(東屋内や軒下にして、建屋内には張らない。)
3.お遍路であることを外から見てわかるようにしておく。
4.店や食堂を事前に利用して、客であり、怪しい者ではないこと、要するに顔を見せておく。
5.他のお遍路や車中泊の人と話し込んだり宴会したりしない。(要するに騒がしいことをしないこと)
6.当たり前のマナーを守り、ゴミを出したり、施設を汚したりしない。

以上のことを勘案して、ここではトイレ棟の裏の男子トイレ側の軒下に決めた。だが、後で失敗だったことがわかった。通気口の後ろなので、トイレの中の水を流す音や、人の声やさまざまな音(なんの音?)が聞こえてくる。排気も時々流れてくる。(臭くはなかったが…)

ザックをしっかり閉じてトイレ前に置き、貴重品と風呂道具だけ持って「ホテル四季の里&いやしの湯」に行った。待望の温泉である。
横のホテルのほうのけっこうしゃれた玄関を見たとき、あれ? なんとなく見覚えがある。なんとなく来たことがあるような気がする。なんとなくじゃなくて、明らかに泊まったことがあるような気がした。ヤバイ!

昔、車遍路で来たとき泊まったような感じ…。それを今まで忘れているというか気がつかないのだから、ああ、どうしようもない。もう、終わってる。いや、始まっちゃってるよ。ショック! …気を取り直して、久しぶりの風呂に入った。気持ちいい。でも、足のつぶれたマメが痛てえ〜!
テントで一人いや御大師さまと二人でビールを飲み、弁当を食べた。野宿の遍路は他にいなかった。車中泊の人はけっこういた。夜になるとみんな暇だから、何気なく小さなソロテントを見に来たりして、なんとなく気恥ずかしかった。オイラはまだまだのようだ。
ここまで来れば、焼山寺の遍路転がしは終わったも同然である。



道の駅「温泉の里神山」(正面左がトイレ棟)



徳島県名西郡神山町神領 2020年9月28日朝・撮影

*

日目は、13番大日寺、14番常楽寺、15番国分寺を打つ。
遍路道は国道438号線を東進し、鬼籠野(おろの)で左折して21号線に入る。阿野橋付近で玉ヶ峠越えの道と合流して、鮎喰(あくい)川に沿って下り、やがて徳島市内に入る。


鮎喰川(あくい) 蛇行 広野付近



徳島県名西郡広野 2020年9月28日・撮影



13番 大日寺 しあわせ観音



徳島市一宮町西丁 2020年9月28日・撮影



14番 常楽寺 (左が本堂、右が大師堂)



徳島市国府町延命 2020年9月28日・撮影


まったくの無防備だった。そもそもそんなこと予測しないって…。見事にやられてしまったのである。納経所の外のベンチにザックを置いて、納経をすませて出てきたら、ザックに結び付けておいた買い物のポリ袋がビリビリに破られていた。なかの食べ物が飛び出ているではないか。「なんだ! だれだ! まったく〜!」 オイラは思わずデカイ声を出した、のだと思う。遠くで休んでいたお遍路さんが、「ネコが来てたよ」と教えてくれた。だったら、追い払ってくれよな〜、こちらは声には出さなかった。さっき久々のコンビニで買ったばかりのものだ。ネコが喜びそうなものは買ってなかったと思うがなあ〜。どうやらねらいはおにぎりのようだった。中をほじくり出してある。でも、腹が減って食べたわけではなそう。おにぎりの中身は梅カツオだった。そうか、このカツオの臭いに惹かれたのか。こん畜生め! 腹が減ってどうしようもなかったのなら、しょうがないが、まあ、それに近いことはオイラもお接待の名のもとにでよくやるからな、まあ許すが…、「一粒の米にも万人の労苦」を思えよな。ネコに言ってもしょうがないか。当のネコはとっくにどこかへ行ってしまっている。まあ、おにぎり1個で腹を立てているようでは、オイラもまだまだだな。
常楽寺は野良猫がたくさん集まっているネコ寺だった。また、写真のように、流水岩という岩盤の上に建っている。




15番 国分寺(山門)



徳島市国府町矢野 2020年9月28日・撮影

国分寺に着いたのは、午後3時頃だった。本堂は工事中だった。
今夜の泊まる場所は、善根宿の栄タクシーを予定していたが、電話をかけると、「この電話は現在使われておりません」とアナウンスされる。ああ、やめたんだ。やっぱりな。どうしよう? と、国分寺の納経所で尋ねてみたら、やはりやっていないというか、移転したそうだ。どこかこの近くで野宿か泊まれる所はないかきくと、親切にすぐ教えてくれた。
四国八十八ヶ所の札所に、国分寺は当然のことながら国毎に計4つある。私の経験からは、どこの国分寺でも、だいたい良いことが起こる。もちろんたまたまの偶然なのだろうが。教えてもらったのはすぐ近くの阿波史跡公園だった。もちろんこの公園は私の野宿リストには入っていなかった。



阿波史跡公園 管理棟



徳島市国府町西矢野 2020年9月28日・撮影


「窮すれば通ず」「求めよ、さらば与えられん」、この公園を教えてもらい、行ってみたら最高の野宿地だった。広い公園だから、テントを張るポイントがわかりにくいのだが、草取りをしていた管理会社の女の人がとても親切だった。テントを張って泊まっていいとか、ここがよいとかは絶対言わない。だが、トイレの横を指して、この前の人はここに泊まったわねとか、静かなところが好きなら、上に東屋もありますよと、教えてくれた。本当に助かった。私が選んだ場所は、今夜も“臭い場所”だった。写真の管理棟のトイレの横の通路に泊まったのである。平気だった。歩き修行のお陰か、1日でだいぶレベルが上がったようだ。



 *

6日目は、まず16番、観音寺を打つ。次ぎにJR徳島線の府中(こう)駅近くで鉄道の線路を渡って北に進み、17番、井戸寺を参拝。そしてまた南に戻るように進み、いよいよ徳島の市内に入る。
だが、今回は市街ではなく、眉山の西側にある地蔵越遍路道を通ることに決めていた。少し山の中に入るが、高低差もあまり大きくなく、距離も短い。何よりも自然の中を歩けるのがいい。

御大師様は今も四国遍路を回り続けていると信じられている。内緒の話だが、噂によると、御大師様はこのコースが好きらしく、今も阿波の国を通過するときは市街の遍路道ではなく、この地蔵越遍路道を歩くのだという。そして地蔵池の畔の真ん中にある東屋に泊まるのだそうだ。すでに情報はそこまで押さえられているのである。
だからかどうかは知らないが、現役遍路で100周以上回っているという某謎の歩き遍路最高記録保持者も、この真ん中の東屋に泊まるのだそうだ。地蔵池周辺の人によれば、2、3か月すると必ずそのお遍路さんはやって来て、ここに野宿するそうだ。似たような話は他でも聞いた。
地蔵院池の畔で昼飯を食べ、先を急いだ。穏やかに晴れたいい天気だった。



番外 地蔵院 本堂



徳島市名東(みょうどう)町 2020年9月29日・撮影


地蔵院池と噂の東屋(正面の林の中)



徳島市名東町 2020年9月29日・撮影


地蔵越遍路道



徳島市名東町 2020年9月29日・撮影

(地蔵越遍路道は、荒れている部分もあったが、迷うようなところや危険なところは特になかった。むしろ地蔵院池へ行くまでの住宅地のほうが、標識がなくてわかりにくかった。)


18番 恩山寺



徳島県小松島市田野町 2020年9月29日・撮影



18番札所、恩山寺に着いたのは、夕方の5時直前だった。どこのお寺でも5時ピッタリに納経所を閉める。だからかなり焦った。ザックも参道途中の牛舎のある道ばたにかなぐり捨てていった。帰りにこの牛舎の間を通るから。蝋燭と線香と経本と納経帳だけ持って登っていった。そして奥の手を使った。参拝の順序としてはよろしくないのだが、先に納経して、後からお参りするのである。納経はなんとか間に合った。後は安心してお参りすればいい。

夕方遅くまで目一杯歩くのはよくないのだが、なぜかそうなってしまう。途中で寄り道したり、油売ったりしてるわけではないのに、なぜかそうなってしまう。原因はわかっている。歩くのが遅いのだ。休みが多すぎるのだ。そのくせその日の予定の場所まで頑なに歩こうとする。いや、歩けると思い込んでいるふしがある。修正が効かないのだ。悪い癖だ。
この日の予定というか願望としての宿泊地は、お京塚のある京塚ヘンロ小屋。後1時間くらいは歩かねばならない。暗くなるだろうな。阿波史跡公園からはおよそ25kmほどある。
お京塚はちょっと気味の悪い番外霊場である。伝わっている芸者お京の話の内容が恐ろしいのであって、場所は新しく建てたヘンロ小屋で、明るく開けている。道路からも少し奥まっているから、車の騒音も多少は緩和される。そして、何よりもいいことは、建物内のスペースが長方形をしていて、中にテントを張ったり、長椅子部分に寝やすいことだ。これは当たり前のように聞こえるかもしれないが、実はこういうヘンロ小屋は少なく、非常に重要なメリットで、ありがたい。
というのは、「ヘンロ小屋」は現在全部で56棟あるが、どれも斬新なデザインでしゃれている。だが、あくまでも建前は休憩所として建てられているので、泊まって寝ようとすると、非常に使いにくいのだ。わざと泊まりにくく作ってあるようにも思えてくる。なんだか意地悪な感じさえするときがある。そんなわけだから、はっきりと宿泊禁止を明示してあるところもある。
ヘンロ小屋48号京塚庵に着いたのは、午後6時を回っていた。今日はよく歩いた。ここは番外霊場だからまずはお経を上げ、大急ぎでテントを張って、ビールを飲んで、弁当を食って、さっさと寝た。特に何も起こらず、安眠できた。よかった。


ヘンロ小屋48号 京塚庵



小松島市立江字中山 9月30日・撮影

(奥がヘンロ小屋。屋根の形は合掌と祈りをイメージしているそうだ。)

お京塚の石碑には、次のように書かれている。

「情夫と計り夫を殺したお京は 享和三年(1803)春 立江寺で鉦の緒に黒髪を巻きあげられたが 院主の祈りにより助かり 改悛して当地で生涯を終えた」



お京塚 (ヘンロ小屋京塚庵の後ろにある)



小松島市立江字中山 9月30日朝・撮影

 *



7日目は、19番立江寺20番鶴林寺(かくりんじ)を打つ。

19番 立江寺 本堂



小松島市立江町若松 9月30日・撮影


19番立江寺 多宝塔 大師堂



小松島市立江町若松 9月30日・撮影




立江寺は阿波の関所といわれ、悪行をした者や邪心をもつ者は、ここで罰を受け、これ以上先に進めなくなるそうだ。昨晩泊まったお京塚のお京もその1人である。私は何ら問題なく通過できた。
立江寺から3kmほど歩くと、法泉寺前に人気の「寿康康寿庵」という善根宿があるのだが、ここも鍵がかかり、「コロナのため閉鎖」の張り紙が貼ってあった。
鶴林寺は、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍、遍路泣く」といわれるように、阿波の遍路ころがしの一つに挙げられている。また、また苦しい急な山道に入ることになる。

昼飯は、道の駅ひなの里かつうらの食堂で、手っ取り早くランチを食べた。これが一番楽である。昼時でたいそう繁盛していた。周辺で仕事をしている人が集まっているようだった。天ぷらが主菜でおかずの小鉢がたくさん付いていて、そのなかでまだ食べたことがないような変わったものがあった。店の女の人に尋ねたら、蓮の茎だという。お浸しのようで煮物のようで漬け物のような感じでおいしかった。珍しいものを頂いた。

道の駅の隣にコンビニがあるが、ここを過ぎると食べ物を売っている店はまったくといってよいほどなくなる。たっぷり買い込みたかったが、ほどほどにした。
生名(いくな)から山中に入り、第二の遍路ころがしに突入する。距離は長くはないが、山道はどんどん急になる。鶴林寺への高低差は470m。途中、古い道標の丁石があり、昔ながらの遍路道を彷彿させる。水呑大師を通過し、鶴林寺近くになると、展望所があり、那賀川が眼下に見下ろせる。今日泊まる予定の大井小学校跡地も見える。橋を渡って、対岸の山の高いところが明日の予定の太龍寺である。



那賀(なか) 鶴林寺手前の展望所より



徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾 9月30日・撮影


20番 鶴林寺 仁王門



徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾 9月30日・撮影


本堂前の鶴の像

 

徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾 9月30日・撮影


鶴林寺に着いたのは、午後3時を過ぎていた。相も変わらず遅い到着である。昨日のように納経時間を気にする必要はなかったが、後で気づいたのだが、境内の写真をほとんど撮ってない。本堂も大師堂も撮ってない。どんなことがあっても少なくても1枚ずつは必ず撮ることにしているのだが。それが撮ってない。どうしたのだろう。雨が降り始めたわけでもない。やはり急いでいたというか、焦っていたとしか思えない。
鶴林寺から野宿する大井小学校跡までは、急坂を1時間半ほど下らなければならない。
廃校になった小学校跡の情報はあまり詳しく調べてなかったが、便利な野宿地として、歩き遍路がよく使っていると聞いていた。めずらしい場所だから、ぜひ泊まってみたかった。
でも、私は少し不安だったのだろう。納経が終わってから、納経所の年配の男の人に小学校跡のことを気軽に尋ねた。男の人はもしかしたらご住職だったかもしれない。しばらく話していて、私は怒やしつけられた。

人の話を聞きなさい!(喝ッ)」


一瞬、私はビックリして、ハッと、我に返った。大声ではなかったが、強く鋭い言葉だった。気迫がこもった一喝だった。
ひとにものを尋ねておきながら、多分その人の話というか、説明を聞こうとしていなかったのだろう。
私の頭の中では、小学校跡に泊まるのが最善だと思っていた。それはほぼ決定事項だった。だから、本当はだめ押しのお勧め情報が欲しかっただけなのに、逆に、小学校跡には泊まらないほうがよい、と言われてしまったのだ。だから、私はああだこうだとぐだぐだ言っていたのだろう。それで一喝を食らってしまったのだろう。
「何があるかわからないから。すぐ下にある大井休憩所にしなさい。人家の目の前だし安心だよ。」と、その人ははっきした口調で言った。
私は「はい、分かりました。ありがとうございました。」とお礼を言って失礼した。でも、口ではそう言ったが、実はどうしようか決めかねていた。全然素直じゃない。自分でもイヤになるくらい素直じゃない。むしろ頑固だ。
納経所の人は、「滑りやすいから、気をつけて行きなさい。」と親切に言ってくれた。

山道を下りながら考えた。
いや、頑固と言うより、自分に都合のよいことしか聞こうとしていない。聞く耳持たずになっている。そもそも冷静に客観的に判断しようとする姿勢がないのだから、まあどうしようもない。あきれた状態だ。これが、“宿が決まってないときの午後4時現象”ということだな、とも思った。
急な山道を1時間ほど下ったころ、小雨が降り出してきた。足がガクガクしてきた。時間的にもぎりぎりになってきた。必死になって歩いた。そしてやっと小学校跡に着いたとき、私は校内には入らず、そのまま大井休憩所へと向かった。
歩いて、歩いて、歩いて、遍路修行して、もう考える余裕などないという状態になって、やっと素直になれた。納経所の人の助言にしたがって、大井休憩所に泊まろうと思えるようになった。
大井休憩所は庇が張り出した大きな東屋で、テーブルやソファーまであり、人家の目の前だから安心して泊まれる場所だった。
概して、自分の下手な考えより、他人の助言のほうが正しいというものだ。ましてや現地のお寺の人の言うことなのだから、そのほうが正しいに決まっている。

テントを張った後、トイレと水確保に小学校跡まで行ってみた。古い木造校舎の入り口にテントが張ってあった。先客がいたのだ。挨拶すると、どこかで見かけたような顔の年配のお遍路さんだった。日焼けた逞しい顔の真ん中に真ん丸の福よかな鼻が付いていて、白いあご髭が伸びていた。アンパンマンがそのまま歳をとったような顔だった。特に話はしなかったが、印象的だった。




大井休憩所




徳島県阿南市大井町 10月1日朝・撮影


 *



(つづく)
(2020年11,12月日・更新)


表紙・Topへ(最新/New)     バックナンバー 花手帖1(1月〜6月の花)  花手帖2(7月〜12月の花)
inserted by FC2 system