ウメ 【 梅 】



東京都 神代植物公園・3月撮影

匂いおこせよ梅の花

ウメは奈良時代に中国から渡来した樹木で、サクラとはちがって、元々日本の野山に自生していたわけではない。だから、日本に渡ってきた当時は、唐風のしゃれた花だったと思われる。
ところが、今では日本的なイメージのほうが強い。英語名も、japanese apricot という。
趣のある枝ぶりに、春に先駆けて端正な五弁花を咲かせ、ふくいくたる香りを辺りに漂わせる。そんなウメの花は、日本人の好みによほどマッチしたのだろう。

 東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花
  あるじなしとて春な忘れそ

菅原道真公は、左大臣藤原時平の讒訴により、太宰府に流された。道真は都を去るにあたり、日ごろから愛していた紅梅殿(道真の邸宅)のウメの花がほころびかけたようすを見ながら、こう和歌を詠んだ。
それは平安時代901年、1月25日のこととされている。
その紅梅殿のウメの一枝が、主人を慕って京から筑紫まで空をはるかに飛んでいき、太宰府の主人のもとで立派に根付いたという。これが有名な“菅公の飛梅(とびうめ)”の故事である。『古今著聞集』などにさまざまな形で伝えられている。しかし、道真は流されてからはやくも2年後には死んでいる。
道真の死後、京都では次々に異変が起き、道真の左遷にかかわった者の怪死が続いた。人々はそれを道真のたたりだとおそれ、後に学問の神様、天神さまとして祭られるようになった。
菅公の悲劇への同情とウメの花が日本人の心の中で結びついたともいえよう。

また、江戸時代になると、ウメはめでたい組み合わせとして“松竹梅”の三幅対に入れられた。ウメは寒さをついて真っ先に花を咲かせるので、強くてすぐれた木とされ、しかもその実は清廉な味をいかなる時も変えないことから尊ばれた。徳川幕府の朱子学の思想ともあいまって、ウメは、美しさの奥にも、変わらぬ強さを秘めた象徴として重んじられるようになった。

それにしても、こう寒さが厳しいと、梅の花の一輪がよけいに待ち遠しい。

(2001.1.17,23)

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