◎四国八十八ヶ所遍路 (伊予の国・愛媛県の巻)

 遍路 祈り



愛媛県松山市石 第51番・石 2017年5月16日・撮影



第40番 観自在寺 本堂 



愛媛県南宇和郡愛南町 2017年5月11日・撮影






愛媛県宇和島市 浦知付近 2017年5月11日・撮影

「歩けども 歩けども なお空と海」(自作)
(最初の思いついた句: 歩けども 歩けども 海と空)



四国八十八ヶ所のお遍路に行った。今回はLCC(格安航空会社)の超格安航空券(成田〜松山)が取れたので、伊予の国、愛媛県の霊場を廻ることにした。
一応2巡目になるのだから、車は使わず出来るだけ“歩き遍路”にしようと心掛けた。宿も最初の道後温泉のゲストハウスの1泊(\2000)だけは取っておいたが、あとはまったく予約していない。とにかく歩けるだけ歩き続けるつもり。
まあ、なんとも無計画の上に無謀でおまけに無知で、元々“無能の人”なのだから、ああ、どうなることやらと思ったが、考えてみれば順番通りに「順打ち」で歩くのだから、コースはほぼ決まっている。地図さえあれば、あとは遍路道に設けられている道標と矢印ステッカーをたよりに、ただひたすら歩けばよいのだ。
問題は体力、特に脚力、気力だ、そして宿探しだ。でも、いざとなったら、遍路宿でも野宿でもキャンプ場でも、高級旅館でもいいやと、覚悟を決めた。なんとかなるさと、気楽に行くことにした。

1日目
登山っぽい感じが楽しめそうな久万高原の44番札所・大寶寺から打ち始めようかと思っていたのだが、地図を見ていたら欲が出てきた。まだ欲がある。予定は7泊もあるんだし、きりのいい愛媛県最南の第40番・観自在寺から打つことにした。

そのためには明日の朝、道後温泉を早朝に出て、市電の始発で松山駅へ、JRの特急・宇和海3号(6:48発)で宇和島へ、そこから宿毛行きの宇和島バス(8:35発)で愛南町・御荘のバス停・平城札所前まで行かなければならない。それを決行したのだから、気合いは入っていた。

午前9時48分、バスは平城札所前に着いた。バスを降りるとき、きょろきょろしていると運転手さんが観自在寺の場所を親切に教えてくれた。目と鼻の先だった。天気は快晴、暑い。さすがに日差しが強い。コールマンのサングラスをかけた。網膜剥離の手術後だから。

今回は一丁前に格好を整えることにした。白衣と輪袈裟は身につけたいし、納経帳も前のものがちょうど終わったので、新しいものを買うことにした。菅笠と金剛杖はLCCに荷物料0kg(手荷物7kgまで)で乗る身としては、残念だがパスすることにした。門前通りを寺に進みながら、遍路用品を売っている店を探した。が、なかった。バス通りの街道筋まで戻って探したが、やはりなさそう。うむー、出鼻をくじかれたかなと思ったが、角の饅頭屋((ケーキ屋)に入って聞けば、「本堂の中にいる人に言えば、全部そろえてくれるよ」とのことだった。なあーんだ、そうなんだ。当たり前のことだった。

本堂の中の人(お坊さんなのだろうか?)は手慣れたものだった。白衣と輪袈裟をいろいろ出してくれ、説明してくれた。白衣は正式な袖付きを、和袈裟は紫色の観自在寺のオリジナル品を買い求め、その場で着て、また山門まで戻って、巡拝を一から始めた。
お参りの手順を箇条書きにした“あんちょこ”を作っておいたのだ。実は、巡拝の順序をあまりよく分かっていない。般若心経も半分ぐらいまでしか暗唱できない。いちばんの苦手は、ご本尊真言の三返唱和である。唱えられるのは、薬師如来の「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」だけである。
だから、自作あんちょこと経本見ながらやる。だから、もたもたして時間ばかりかかるのである。でも、心静かに、気持ちを集中してお参りした。スーッと落ち着いていくのが自分でも分かった。
本堂のあと、同じことを大師堂でも行う。そして納経所で墨書きと朱印を押してもらう。これで一通り終わりである。やっと40番・観自在寺を打った。なんだか、はやくも疲れた。

さあ、行くぞ! これからが歩き遍路の本番だ。さて、今日はどこまで歩けるかな? とは思ったが、どこまで行けるか、見当が付かなかった。宇和島までは30km以上だから、まず無理。津島町までなら、20kmくらいだからなんとか行けるかな。そこまでは行きたいなあ、オイラの場合、歩ける距離は1時間でおよそ4kmだから、20kmだと約5時間はかかる。午後5時を過ぎるなあ。とそんなことを考えながら国道56号線を北上し始めた。
すでに正午になろうとしていた。空はどこまでも青く、5月の風は爽やかだった。と、書きたいところだが、真夏を思わせる暑さだった。
国道56号線は、松山と土佐をつなぐ幹線道路だから車の量は多い。トラックもバンバン走っていく。数キロ行くと、内海というところで、遍路道は道路と山道に分かれる。距離的には山道の方が少し短いようだが、標高が470mの山を越す。迷わず56号線の道路を選ぶ。しかし道路は海岸線に沿って入江を回り込み、緩やかだが上り下りもけっこうある。岬をショートカットするところには長いトンネルもある。しかしここには歩行者や自転車用のトンネルが横にあって、車の排気ガスを思い切り吸い込むこともなく、助かった。左側には豊後水道の海がどこまでも広がり、時々漁船などがゆく。写真を撮りながら、ただ黙々と歩いた。

歩けども 歩けども なお 空と海  (自作の俳句ができた)

そのとき、目の前に車が止まった。降りてきた年配の女の人がこちらをじっと見ている。しばらくしたらしきりに手招きをする。近づいていくと、なんとなんと初めての“お接待”であった。

「暑いのに、ご苦労さんですね。冷たいお茶をどうぞ。私たちは高知から来たんですよ。」とペットボトルを出してくれた。おばさんの二人連れだった。暑くて頭がボーッとしていた。遠慮なく飛びつくようにもらった。

「暑くて、まいっていたんです。助かります。」“土佐のお茶”は冷たく冷えていた。私は思わず手を合わせた。すると、飴やらお菓子もくれた。車遍路の人だったのかもしれない。
午後2時を過ぎた頃、いくら何でもそろそろ宿を取らねばと思った。津島町までは行けそうな気がした。そこには数軒の旅館がある。携帯で次々に電話した。ところが、「今夜は宴会が入っているから」「お遍路さんの団体で満室」「いまは素泊まりしかやっていない」「他を紹介しますから」と、4軒とも断られてしまった。オー・マイ・ゴッド! ああ、なんたることか。甘かった。残るは、町外れだが一応街道筋のビジネスホテルだ。おもむろに電話すると、空いていた。ああよかった。ビジネスホテルでも、まあいいか。
海岸線の道路をただひたすら歩き、嵐というところから、内陸に入る。地図にあるAコープで何か買って食べようと思ったら、店はつぶれていた。
日は暮れかけてきた。6時を過ぎた。ああ、疲れてきた。足の動きが悪い。足の裏がヤケに痛いのは、もしかしたら豆でもできたのだろうか。初日だというのに、キブ・アップ寸前である。観自在時の本堂の中の人に言われたことを思い出した。「夕方5時過ぎたら、バスに乗ったほうがいいよ。翌日そこまでバスで戻って、またそこから歩き出せばいいんだから。そういう歩き方の人もけっこういますから。」オイラは迷った。バス停の時刻表を見たら、なんとちょうど10分後にバスが来る。これを逃すと1時間はバスは来ない。オイラはあっさりと決断した。こういうときは速い。バスに乗るのである。そしてバス停にへたり込み、休んだ。そしてバスに乗ったのである。
ああ、“歩き遍路”は、かくのごとく初日から見事に頓挫したのである。その日の目的地にしていた島津町まで、あと3kmほどの於泥(おどろ)というバス停だった。
バスはあっという間に島津町の町中を通り過ぎ、町外れの高田というバス停に着いた。ビジネスホテル(\4500)にチェックインすると、目の前にあったドラッグストアへ直進、早速アリナミンのドリンク剤を飲み、近くのといっても歩いて10分くらいはかかるラーメン店で、ビールとサラダ付きのラーメン定食を食べた。やっと人心地がついた。

(2017.5.19〜更新)


番外 馬目木大師 全景 



愛媛県宇和島市 2017年5月12日・撮影



番外6番 龍光院



 
愛媛県宇和島市 
2017年5月12日・撮影

 翌朝の2日目は、目は覚めたが、起きられなかった。お茶だけ飲んでチェックアウトした。昨日バスに乗ってしまったところまでバスで戻り、歩き残した分を律儀に歩き遍路するつもりだった。
フロントの女の人に、「8時のバスは何分でしたかねえ?」と聞くと、「あれですよ」と外を指さした。ちょうどバスが通りを走り去っていった。ああ、無情。今日もまた、オー・マイ・ゴッド! で始まってしまったのだ。調べたら、あと2時間はバスがない。歩きで戻るしかない。何というバカなんだろう。ドジである。オイラは仕方なくテクテクと歩き出した。

於泥のバス停からは、56号線の道路を戻るのではなく、右斜めに入り、村落の中を並行していく旧道を歩いた。ここは落ち着いた遍路道でいい。今朝出たビジネスホテルの地点まで戻ったのは、もう10時を回っていた。これからがやっと今日の本当の遍路である。

松尾トンネルは1710mもあり、車の量も多いから、通り抜けず、山道の峠越えをする。標高差は180mほどで大したことはないが、下りはなにやら巨大ゴミ焼却場の建設中の中や、埃っぽい採石場の横を通る。馬目木大師をお参りし、宇和島市内にはいった頃、雨がポツポツ降り出した。番外札所・龍光院に着いたのは5時を過ぎていた。ザックカバーをつけ、傘を差して歩いた。
宇和島市内には、宿はゴマンとあるのだろうが、今日は昨日で懲りて、早めに北宇和島の素泊まりへんろ宿(\3000)を取っておいた。だから、どんなことをしてでもそこまで歩かねばならない。宇和島駅から北宇和島駅までJRの鉄道に乗ることもできたが、歩き残して翌日歩くのは、悪いことでもルール違反でもないのに、気分が後ろ向きというかネガティブで、なんか気が進まない。今朝で懲りた。なんとしても北宇和島まで、本降りになった雨の中を歩くことにした。今日は結局、八十八ヶ所霊場の参拝はゼロ。ただし、歩行距離は20数キロにはなった。


北宇和島のへんろ宿に着いたときは、もう暗くなりかけていた。この宿はとても親切で、きれいで、設備もそろっていて、きちんとしていている。大雨だし、買い物には行かず、温かい風呂に入って、残りの弁当と宿備え付けのビールを買って飲み、とにかくさっさと寝た。“おやすみ三秒”だった。

第41番 龍光寺 全景 



 愛媛県宇和島市三間町戸雁 2017年5月13日・撮影



第42番 佛木寺
仁王門 



愛媛県宇和島市三間町則 2017年5月13日・撮影



歯長峠 標高480m  番外霊場 送迎庵見送り大師



愛媛県宇和島市・西予市 歯長峠 2017年5月13日・撮影
(お堂の中には数体の石仏が安置してある。)




愛媛県宇和島市・西予市 歯長峠
 2017年5月13日・撮影





愛媛県宇和島市・西予市 歯長峠
 2017年5月13日・撮影



歯長峠  【 遍路道崩壊地点 



愛媛県宇和島市・西予市 歯長峠近くの崩壊地点のようす 2017年5月13日・撮影
(「通行止」の看板が道の真ん中に打ち込まれていたが、遍路道自体は崩れてはいなかった。)



3日目
朝は賑やかなおばちゃんの声で目を覚ました。備え付けのインスタントコーヒーを飲んでいると、そのおばちゃんが出てきて話になり、のり巻き寿司とカップ味噌汁のお接待をいただいた。ありがたかった。でも、このおばちゃん、お遍路さんでないのは確かなのだが、本人は買い物に来ていると言っていたが、いったい何をしに来て泊まっているのか、いまいちよくわからなかった。


今日は歩き始めて3日目、三間町を通り、41番・龍光寺42番・佛木寺(ぶつもくじ)、そして歯長峠(標高480m)を越えて、卯之町まで歩く。国道は56号線から57号線に入り、山間を緩やかだが確実に三間へ上っていく。
途中光満というあたりで、県立三間高校の海外研究部というサークルの女子高生がお接待に出ていた。冷たいお茶と飴をいただき、しばらく話をして、写真を撮り合い、絵はがきや巾着袋をもらった。高校2年生だという。素直でかわいい子たちだった。先生もニコニコ顔だった。

山門の代わりに鳥居があり、稲荷大明神を祀った龍光寺。ご詠歌に「草も木も仏になれる佛木寺 なお頼もしき鬼畜人天」とある佛木寺をお参りした。そして、いよいよ難所の歯長峠。登り口に着くと、遍路道の真ん中に「通行止」と大書した看板が打ち込んであった。オイラはちょっと迷ったが、まっすぐ進むことにした。
峠には、送迎庵見送り大師のブロック作りのお堂があり、中に数体の石仏が安置されていた。周りには忘れられたように紫色のイチハツの花が今を盛りに咲いていた。人には誰にも会わなかった。しかし、肱川に出る少し手前の橋の下から人の話し声が聞こえた。どうやらそこに泊まろうとしているようだった。そういうお遍路さんもまだいるのだ。肱川に出ると歯長地蔵があった。ここまでくれば、今日は卯之町までは行けるだろう。宿を探そう。電話をかけた。「満室です」「宴会が入っていて」「お遍路の団体さんでいっぱいで」「姉妹店のビジネスホテルなら空いてますが…」、またか。
それならと、卯之町駅前の老舗旅館に電話したら、意外に安かったのでそこにした。当日の直前になってからの宿探しがこんなに大変とは想像もしなかった。でも、宿が決まってほっとした。第43番・明石寺は明日お参りすることにした。途中、道引大師をお参りしたが、そこにも今夜はこのお堂の中に泊まるという年寄りのお遍路さんが準備をしていた。足も伸ばせないような小さなお堂だった。


駅前の老舗旅館(\6000)は、創業百年とあって、建物は相当古いが、料理は抜群に旨く、洒落たものを出していた。きっといい板さんがまだいるのだろうと思った。泊まり客は年配の男のお遍路さん一人で、奥のほうで宴会が入っているようだった。部屋に戻ると布団が敷いてあった。翌日の朝食は食堂だったので、年配の男のお遍路さんと少し話をした。歩き遍路だそうだ。




43番・明石寺  【 本堂 



愛媛県西予市宇和町明石 2017年5月14日・撮影



44番・大寶寺  【 本堂 



愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生 2017年5月14日・撮影



峠御堂トンネルとのみどう 



愛媛県上浮穴郡久万高原町 2017年5月14日・撮影
(トンネルの出口。遍路道は左側で、その林の中から下りてきた。
帰りはこのトンネルを通り抜けて久万高原町に出た。)



 4日目。天気は晴れ。少し戻るような感じで卯之町のアンティークな町並みを見ながら30分ほど歩き、宇和町内の43番・明石寺(めいせきじ)を打つ。4日目ともなると、巡拝もだいぶ慣れてきた。しかし、ここから第44番・大寶寺までは、約85km(ガイドブックでは104km)もある。今回の日程では、歩くのはかなり難しい。直通の宇和島バスの路線もなくなっていた。
JR卯之町駅まで戻り、特急で松山へ行き、そこからJRバスで第44番・大寶寺のある久万高原(久万中学校前)まで行くことにした。実は、まあ、これは予定の行動なのである。

JR卯之町駅の若い女の駅員に松山駅でのバスの連絡を訪ねたところ、連絡は
7分だった。だから特急を降りると、大急ぎで駅前のバス停まで走った。しかし、待てど暮らせどバスは来ない。ぬぬっ? 変だぞ! 15分過ぎたところで、バス案内所に行ってきくと、バスの時刻はこの4月に改正され、そのバスはなくなっていた。ああ、次のバスは13:50発、まだ1時間半近くある。まったくもって困ったもんだ! とは思ったが、不思議に怒りがわいてくるようなことはなかった。これもお遍路のおかげなのだろうかと思ったりもした。
(つづく)
久万中学校前のバス停から44番・大寶寺(だいほうじ)までは30分もかからなかった。杉の大木に囲まれた久万高原の山中の寺である。お参りした。遍路道は大寶寺の裏山へ抜け、シャガやホウチャクソウの花が咲く杉林の中を進む。そして県道12号線に出たところが、峠御堂トンネルの出口である。ここからは山間の12号線を進むのだが、すでに夕方の5時を過ぎ、未だ今夜の宿が決まらないという有様だった。
八丁坂の人気の民宿は満員で、隣の民宿は休みだった。その民宿の人は、親切にいろいろ教えてくれたり、素泊まりならどうぞといってくれたが、この時間になるとやはり食事付きでないと、この山の中ではチョット困る。だいぶ遅くなりそうだったが、その先の温泉のある国民宿舎(\7500)に電話すると、空き室もあり、8時くらいまでなら大丈夫ですよと、あっさりOKだった。薄暗くなった道路をただひたすら、黙々と歩いた。一体、何のためにこんなことをしているのだろう。なんだかわけが分からなくなっていた。着いたのは夜7時頃になってしまったが、なんということはない、山の中にしてはすごく大きくて立派な鉄筋コンクリートの宿だった。要するに収容力のある大きな宿はちゃんと空いているんだ。部屋に荷物をおいて、すぐさまビールと食事にした。至福の時だった。それではいけないのだろうが、やはりまだこちらのほうが至福だった。外国人と日本人のカップルが何組かいた。温泉もいい湯だった。



45番・岩屋  【 大師堂 



愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥 2017年5月15日・撮影




 5日目
今日はいよいよ今回の最大の難所である45番・岩屋寺(いわやじ)を打つ。天気は快晴、暑くなりそうだ。奇岩絶壁の古岩屋に見送られ、のどかな山間を直瀬川に沿って県道12号線を行く。ヤマツツジやフジの花が咲き、ちょうど茶摘みをしていた。
1時間ほどで岩屋寺に着いた。しかし石段が長い。巨岩絶壁に囲まれ、鬱蒼とした森の中は、まさに山岳修行の霊場である。なにか独特の雰囲気にのまれていた。霊気を感じていたのかもしれない。無意識のうちに今日の歩行距離44km+αに急かされていたのかもしれない。焦っていたのだろう。本堂と大師堂をまちがえて、先に大師堂をお参りしてしまった。奥にある堂宇の方が大きかったので本堂だと思いこんでしまったのだ。
あっ、失敗した! と思ったら、今度はお参りのたびに帽子を取ったり、サングラスを外すのがすごくめんどくさいというか疎ましく感じ、いらいらした。些細なことでまだイライラする。年甲斐もなく。
でも、初めから外しておけばいいんだと冷静に考えることはできて、すぐそうした。

初めて道が分からなくなった。帰りは、来た道とは違う寺の奥へ抜ける山の中の遍路道を通って周回し、八丁坂を下るつもりだった。納経を済ませたあと、納経所のお坊さんに道を尋ねた。一番奥にある仁王門をくぐって山道を登っていくのだそうだ。昼なお暗いような山道に「三十六童子行場」が設けられている。
ここを登り始めてしばらくしたとき、
「アッ! サングラスがない! アレ?! ホントにない〜!!! 愛用のコールマンのサングラスが!」
外したとき落としたか、大師堂の前のベンチに置き忘れか、納経所の目の前の棚に置き忘れたか…、いろいろ思い出そうとしてみたが、はっきりしない。もう探しに戻れる距離ではない。無くしたことがすごく悔しかった。
沖縄の島々をともに旅してきたオイラのコールマンのサングラスだ。だが、今日は、諦めた。未練も執着もなく。スッキリ、ハッキリ諦めた。なんか外したり掛けたりするたびに疎ましく感じていたのは、あのサングラスはそういう運命にあったのかもしれないと思えた。いや、無理矢理そう思おうとした。物に執着し過ぎるのはよくない。物に縛られるから。変なことを自分に言い聞かせ続けた。

しばらく登ると、「逼割禅定」という巨岩の裂け目を鎖で登る修行場に着いた。人が2人登っていく後ろ姿がちらっと見えた。お遍路さんだった。扉が半開きになっていた。私は躊躇もせずに中に入り、登っていった。昨日夕方、大宝寺あたりで見かけた外国人と日本人のカップルのようだった。
頂上近くで追いつくと、若い日本人の女の人が何か言い出した。はっきり言って、怒られた。唐突だったのでオイラはびっくりしたのだが、要するに私たちは特別の許可を得てカギをかり、お金も払って入っているのだという。それは知らなかった。すみませんでしたとあやまったが、ここで下りるのもったいないので、すぐそこの頂上まで行って、そそくさとお参りして、何も言わずにさっさと先に下りた。
私が悪かったのだろうが、こういう場所で面と向かって怒られたのは、何とも後味が悪かった。でも、ずいぶんハッキリものを言う女の人だなあとも思った。いつも手をつないでいるお遍路さんだった。もしかしたら、2人だけの修行場を邪魔しちゃったのかな…?

八丁坂への山道は2、3回の上り下りはあるが、道ははっきりしていて歩きやすかった。昨日歩いてきた県道12号線に合流し、帰りは峠御堂トンネル(約600m)の中を通り抜けた。このトンネルのおもしろいのは、歩行者はまず電気を付けて入るのだ。発光タスキもおいてあった。

久万高原の町に出たとき、時刻はすでに午後3時を過ぎていた。
これから国道33号線を北上し、三坂峠を越え、第46番・浄瑠璃寺付近まで行くのは、明らかに無理である。順調に行っても夜8時を過ぎるだろう。だが、オイラは行こうとしていた。歩こうとしていた。食堂に入ろうかとも思ったが、そんな時間はもう無い、と自分で自分を一蹴した。コンビニでポカリとコッペパンといなり寿司を買って、歩きながら食べ始めた。ふだんそんなことは絶対にしない。やはり、すでに、ちょっと、おかしかったのだ。宿も取ろうともしていなかった。ただ、黙々とゆるい上り坂を何かに憑かれたように歩き続けているだけだった。
無心といえばかっこいいが、何も考えずに、ただ惰性で歩いているだけだった。
疲れている。やっぱり腹が減っているのだ。バス停にへたり込んで、残りのパンや寿司を食べた。通りの向こう側を外国人と日本人のカップルがやってきた。昼間の人たちではなかった。大きなザックを背負っているのに、猛烈な勢いで私を追い上げてきた。そして、女の人が、「いっしょに行きましょうよ。私たちもこれから長珍屋まで行くんですよ」と、励ますというか、誘ってくれた。ありがたかったが、あのスピードにはついて行けない。
国道33号線には、本数は少ないが、JR松山駅行きのバスが走っている。バス停を通過するたびに、バスの時刻を確認するようになった。やはりバスに乗るしかないな。では、まず宿を取ろう。電話すると、浄瑠璃寺前の旅館・長珍屋は空いていた。これからバスで塩ヶ森まで行き、そこから歩きますので、と遅くなることを告げた。宿の女の人は、ミカン畑の中を下ってくる感じになりますからと教えてくれた。
方針は決定した。あとは時間が許す限り、少しでも歩き遍路をしようと思った。横通というバス停で、さてどうしようかと思案した。バスが来るくるまでまだ15分ほどある。もう1駅稼ごうか、と歩くことにした。
後から考えてみれば、これが運命の分かれ道だった。
歩いても、歩いても次のバス停にならない。必死になって歩いた。だが、バス停がない。どういうことだ? 失敗したな。バスが来たら、見境なく手を挙げて止まってもらおう。振り返り、振り返りしながら歩いた。しかし、バス停はない。人家のないところだからバス停の間隔が広いんだ。先ほど声を掛けてくれたカップルが公園のようなところで休んでいた。オイラは「次のバス停まで急ぎますので」と大声を出して、そのまま歩いた。このとき休まなかったのが、後から考えてみれば悲劇の始まりだったのかもしれない。
だが、おかしい。どこまで行ってもバス停がない。時刻を過ぎても、バスが来ない。バスがオイラを追い越していかない。何か様子もおかしい。5時半くらいになってはいたが、車が1台も通らない。道は広いが本当に1台も通らないのだ。閑散としている。ついに三坂峠まで来てしまった。バス停はあったが、古びていて、バスの時刻表も読めない。明らかに使われていない、おかしい。あたりはまるでゴーストタウンのようだった。右側には石標と遍路道が延びていた。はたと考えた。キツネにつままれたような感じだった。

すこし先の道端で山菜の仕分けのようなことをしている人たちがいたので尋ねると、なぜかはっきり答えてくれない。教えてくれない。車の中の犬には吠えたてられ、その脇で子供達が大ふざけして暴れたり泣いたりしていた。なんかへんな集団だった。ただ分かったことは、「新道が出来てからは、ここの道は人も車の通らないよ」とのことだった。バスはもう通っていないのだ。道理で。
困り果てていると、先ほどのカップルが着いた。聞いてみると、ドイツ人だという若者がガイドブックを出して、バス停があると見せてくれた。だが、彼のガイドブックも古かったのだ。オイラの遍路地図は家にあったのを持ってきたのだが、三坂新道さえも書かれていなかった。もっと古かったのだ。オー・マイ・ゴッド! である。カップルも先を急いでいた。オイラは「ダンケッシェーン」と大きく叫んで分かれた。

静まりかえった三坂峠は、刻々と夕闇に包まれていった。オイラはすでに動揺し、慌てていた。ドツボにはまっていた。もしかしたらこれは“わが人生最大のピンチ”かもしれない。大きく息をした。観念した。もう、タクシーである。金ならいっぱい持ってきた。
電話した。1軒目は出ない。2軒目はメーターを倒していくので、4千円ぐらいはかかるという。うむー、急に勢いがなくなり、現実的になって、迷った末に、やっぱりやめた。
バスはまだある。さっきの最後の停留所まで戻ればいいんだ。それが一番安くて確実だ。オイラは三坂峠からまた元来た道を大急ぎ戻った。
三坂峠からカップルが休んでいた公園までは2kmほどはあろうか。目の前の右手に新しい道路とトンネルが見えた。三坂新道である。さっき上がってきたときには、それに気がつかなかったのだから、何ともうっかり者というか、どうかしている。路線バスはそちらを走っているのだろう。バス停もなければ、バスに追い越されることもないわけだ。
公園内には見えにくいところにテントが1張り張ってあった。お遍路さんのようだった。

すぐ下の旧道と三坂新道の別れ道の所まで歩いてきた。信号機があった。それをボケーと見ていた。ここが運命の分かれ道だったんだ。自分がすごく疲れているのが分かった。そのとき、久万高原の方から、黒塗りの乗用車がスーッと近づいて来るのが見えた。あれ? 夕闇の中に赤い「空車」の文字が見える。えっ? まさか! タクシーである。
オイラは慌てて手を挙げた。ちぎれんばかりに手を振り回した。黒のクラウンは私の目の前に、そう大騒ぎしなさんなとばかりに、静かに止まった。こんな山の中で、こんな時間に、目の前にタクシーが走ってくるなんて、信じられないことが起こった。本当に奇跡としか言いようがない。
運転手さんは「どうぞ」と言った。私は、泣きたいくらいに嬉しかった。道に迷って、バスの乗り遅れ、どうしようもなく困り果てていることを告げ、第46番札所の浄瑠璃寺に行く途中の塩ヶ森というところまでお願いしますと言った。運転手さんは「はい」とは言ったが、どちらに進めばいいのか何となくわからないような感じがした。私は、道はだいたい分かると思うので、この33号線の旧道をまっすぐ進めばいいんだと思いますといった。
「そうだ、昔、浄瑠璃寺には来たことがある。左に曲がるんだよ」
「いや、右側だと思いますが…」私は念のため地図とメガネを出しておいた。

さっき歩いて上がって行って、また歩いて下りて来た三坂峠への道を、今度はタクシーでまた上がっていく。
運転手さんは、今日は遍路タクシーで5寺回ってきて、いい稼ぎになったそうで、ちょっとご機嫌のようだった。顔ははっきりとは見えなかったが、かなりの年配で、後ろ姿のがっしりした肩のあたりは、どこかで見かけたような、見覚えがあるような気がした。
旧道の33号線(現在は400号線)はかなり曲がりくねっていて、距離があった。運転手さんは、「とにかく左に曲がるんだ。そこを逃すと大変なことになる。あとはミカン畑の中を下っていくんだ。」そればかり、まるでお経のように繰り返していた。
道が大きくカーブし、360度回転したかと思ったところで、左側に浄瑠璃寺へという小さな看板があった。運転手さんはそれを見逃さず、その暗い細い道に左折した。「ほれ、左だろ」と言った。そして運転手さんは「メーターをよく見といてくれ」と念押ししてから、メーターを降ろしてしまった。
「この辺が塩ヶ森でしょ、塩ヶ森で降ろしてください。」と私は言った「今日はどこへ泊まるんだい? 行ってやるよ。」
「いやあー、一応歩き遍路ですから…」
「この真っ暗なミカン畑の中で降りたら、わかんなくなるよ。」
「…長珍屋」
「ああ、浄瑠璃寺の真ん前の…、あそこなら昔よく行ったから分かる。任せておけ。」
それにしても、「昔」が多い。いつ頃のことなのだろう。
いろいろ話をした。若い頃東京にもいたそうだ。それなりに苦労もしてきたような雰囲気がした。でも、顔は見なかったが、どこかで会ったことがあるような気がした。
暗くて細い山道が続いたが、道と運転は正確だった。歩き遍路としてはタクシーで旅館に乗り付けるのは格好悪いから、少し手前で止めてくれと言ったのに、長珍屋の真ん前に横付けされた。

かなりの距離だった。メーターは2500円でおろされたが、私は財布の中にあった千円札全部、といっても4枚しかなく、4000円を渡した。それでも明らかに安すぎるだろう。運転手さんは「おおっ」と言っておしいだき、携帯の番号を書いた名刺をくれた。
「なんかあったら、いつでも呼んでくれていいからな」と言った。
私は、本当に助かりましたと、何度も何度もお礼を言った。
そして車を降りたとき、運転手さんは「おっ、メガネ」と言った。座席を見たらオイラのメガネケースが転がっていた。1日に2個もメガネをなくしたら、お大師様からも見放されてしまうな。私はまたまたお礼を言って、頭をペコペコ下げた。なんだか昼にサングラスをなくしたことを見透かされているような気がした。そして私は明るい旅館の中に入っていった。
わが人生最大のピンチは、なんとか切り抜けられたようである。

長珍屋は大きな旅館だった。穏やかで物静かで、ぽちゃぽちゃとした顔の女将さんらしい人が迎えてくれた。フロントで受付したあと、私はもう話さずにはいられなかった。夕暮れの三坂峠で困り果てて呆然としていたところ、目の前に突然タクシーが現れ、それに乗ったら、塩ヶ森で降ろしてくれといっても、降ろしてくれなくて、ここまで乗せてきてくれたことを。女将さんは、「それはよかったですねえ〜」とニコニコしながら言った。

すすめられるままに先に風呂には入ったあと、大広間の食堂へ行った。
床の間のようなつくりのところに、仏さんや掛け軸や仏画、仏具などが飾ってあった。軽く座って合掌だけのお参りした。その時、掛け軸の中に描かれた人と目があった。その瞬間、私は身の毛立った。全身に鳥肌が立ち、何か強烈なものを感じ取った。そして、「あっ!」 と叫びそうだった。
掛け軸の中の人は、まさに先ほどのタクシー・トライバーだった。そうだ、タクシーの運転手さんはお大師さま、弘法大師だったんだ。がっしりした肩の後ろ姿やでかい四角張った頭は、まさにお大師さまそっくりだったじゃないか。
それで分かった。車を運転し始めようとしたとき、どっちに進めばよいか分からないようで、一瞬もたついたこと。話の中に「、来たことがある」が多かったこと。それに、塩ヶ森からのあの真っ暗なミカン畑の中の、あの細い山道をビュンビュンぶっ飛ばして走って来れたこと、どう見ても不思議だ。若い頃東京にいたと言ったが、あれは都という意味で京都のことだ。
それに、運転手さんの顔を何度か見ているはずなのに、どういう顔立ちだったかどうもはっきり覚えていないこと。運転手さんには顔がなかったのだ、そう、お大師さまだから隠されていたというか、私の記憶の中の顔が消されていたのだろう。
“お大師さまミラクル”がまた起きたのだ。私はまた助けられた。私はタクシーの運転手さんに、そしてお大師さまに感謝しながら、遅い夕飯を食べた。
夕食も食べ終わるかと思う頃、
ドイツ人と日本人カップルが到着した。…

(つづけ〜)
(2017..更新)




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