東北から新潟へ・青春18きっぷの旅




岩手県二戸市金田一温泉 馬淵川 1月13日・撮影


 またまた“青春18きっぷの旅”に出た。切符の残りがあったので使い切ろうと思ったのだが,どこへ行こうかはたと迷った。やはりまだ行ったことのないところがいい。しかも冬のシーズンならではの場所がいいだろう。思いついたのが茨城から三陸の北上だった。常磐線で行く東北である。でも,なんとなくピリッとこない。地図をたどるように気持ちを少しずつ北上させていったら,パッとひらめいた。そうだ金田一(きんたいち)温泉だ,八戸に行こう。一瞬にして決まった。
 金田一温泉はある小説家ゆかりの地だし,小説の舞台にもなれば,随筆にもよく登場する。八戸はもちろんその作家のふるさとである。その地をぜひ一度は訪ねてみたいと思っていながら,長い間足をのばせなかった。でも,もうそろそろいいだろう。いや,ちょうどいい時期のような気もした。ただし,三陸には今では第三セクターになった三陸鉄道が2個所にわたって走っている。だから青春18きっぷが使えない区間がある。普通列車の接続もあまりよくない。ということは,やはり東北本線で盛岡まで行き,あとはIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道に乗るほうがよさそうだ。
 早朝,たまたま栃木方面に行く人がいたので,車で東北本線の氏家駅まで乗せてもらった。朝,上野駅を7時00分発の普通列車に乗れば,夕方18時27分に岩手県最北の金田一温泉駅に着く予定である。その列車よりだいぶ早く,氏家駅7:54発の鈍行に乗れた。天候は曇り,時々小雨。だが鉄道の旅では,天気はあまり気にならない。車窓の景色を楽しみながら,持ってきた3,4日分の新聞をまとめ読みし,それが終わると今度は文庫本を読み出す。この間,氏家から→黒磯→郡山→福島→仙台→松島→小牛田(こごた)→一ノ関→盛岡→金田一温泉,と普通列車を乗り継いで,18時27分,予定どおり金田一温泉駅に到着した。最近では,鈍行列車の長時間乗車や何度もの乗り換えもあまり苦にならない。“修行”の成果が出てきたようだ。
 しかし,日はとっぷりと暮れ,さすが北国,あたり一面は雪景色。東京の暖房天国からやって来た者にとっては,凄まじい寒さだった。予約しておいた旅館までは,車で5分と書いてあった。一瞬タクシーで行こうかと迷ったが,やはりここは歩くことにした。金もないし,いや,雪の馬淵川(まべちがわ)に架かる橋をこの足で歩いて渡らなければ意味がない。それがきっと“神様の思し召し”というあの小説の冒頭にある言葉を体験することなのだと勝手に思った。ところが,駅からものもの1分も歩かないうちに,その方針がいかに愚かで浅はかな選択だったか思い知らされた。道路の雪はバリバリに凍って氷の道になり,粉雪混じりの痛いほどに冷たい風が吹きつけるばかりだった。人は誰もいない。広い幹線道路には時折車が通りすぎて行くが,これは,もしかしたら,平地の路上で遭難するかもしれないと思ったくらいだ。転ばないように,慎重に,ただひたすら歩いた。馬淵川に架かる橋は,今では土橋などではなく,大きなコンクリートの橋だった。馬淵川は予想よりはるかに大きな川だった。橋桁から下を恐る恐るのぞけば,河原までの距離は2,30mはありそうな感じがした。落ちれば,まず間違いなく助からないだろう。暗い山裾の小高いところに温泉場の灯りがちらほら見えていた。結局30分くらいは歩いただろうか。途中,人にはひとりも行き会わなかった。当たり前か。旅館に着き,明るい玄関に入ったとき,正直いってホッとした。若い女将さんは,私の顔をしげしげと見ていた。顔には見せなかったが,たぶんあきれていたのだろう。
 夜も遅かったから,まずは食事にしてもらった。白子鍋がすごくおいしかったが,みそ汁のしょっぱいのにはおどろいた。さすが東北である。そして小説にも登場する岩風呂の温泉にゆったりとつかった。湯は肌がすべすべするとてもよい泉質だった。隣の女湯のほうから話し声がしきりに聞こえていたが,地元の人なのだろうか,言葉がどうもよく分からなかった。南部の言葉は,青森とも岩手とも違うという。独特の東北弁なのだそうだ。北国の旅情をじゅうぶんに味わった。
 部屋に戻ってから,ゆかりの小説家を紹介する手作りの小冊子が置いてあったので,それをぱらぱらとめくった。大昔に読んだ小説や随筆の中の,この旅館と関わりのある一節が,ダイジェストされていて,懐かしく読んだ。昔を思い出し,ちょっとしんみりきた。でも,あまりにも寒いので,布団をいっぱい掛けて,さっさと寝た。
 夜中に,部屋の隅のほうでカタカタなっている音が気になって目が覚めた。なんだかちょっと変な恐い夢を見ていた。軽い金縛りにもなった。布団が重かっただけなのだろうが,もしかしたら座敷わらしが出張してきてくれたのかもしれない。泊まった宿は,座敷わらしが出るということで有名な旅館ではなかったが,たぶんお客の少ない冬の時期だから,暇で暇でからかいにでも来たというか,遊びに来てくれたのだろう。座敷わらしに会えば,男なら金運に恵まれ,女なら子宝を授かるといわれている。これはホントらしい。座敷わらしさん,そろそろ,なんとか,絶対に,よろしくお願いしますね。なんせ,久しぶりの旅行だというのに,1泊2食付き6,450円(税込み)の格安ビジネスコースがやっとの身分なのですから…。
(つづき)
 さて,翌朝は電話のベルで起こされた。モーニングコールといえば聞こえはよいが,そんなしゃれた雰囲気ではなく,「朝ご飯さ用意できてますよ」と若い女将さんの声。朝7時に頼んでおいたのだった。青春18きっぷの旅の鉄則・その1は,“早立ち,遅着き”である。大慌てで廊下の一番奥まで走り,我慢していたトイレと洗面をすませ,階下の大広間兼食堂へ行った。ここで食べる宿泊客はわたしひとりだった。朝食には特別なものは付いていなかったが,ごく普通のおかずがいろいろ出た。あったかいご飯と温泉卵がおいしかった。
 玄関ロビーには,ゆかりの作家のほとんどすべてと思われる本と,色紙や原稿,記念写真までがきれいに並べて飾られていた。まだ読んでない小説が何冊かあるのに気づいた。「タクシーさ頼みますか」ときかれたが,ここは見栄も外聞もなくさらりと断り,駅までまた歩くことにした。朝の馬淵川や作家が若いころによく来たという父親の実家の湯田という村も昼間に見ておきたかった。まだ30分以上もあるから,金田一温泉駅8時47分発八戸行きの普通列車には間に合うだろう。時折粉雪が舞ってきたりしていたが,昨夜のようにシバレル天気ではなかった。
 上の写真は,この朝,橋の上から撮った馬淵川の写真である。北国の冬の川の姿は,やはり心に重くのしかかってくる。川は八戸市を突き抜け,太平洋にそそぐ。馬淵川水系本流の一級河川である。湯田という地区は,とにかく周りが雪をかぶった水田ばかりで,どのへんなのかさっぱりわからなかった。そんなこんなでちょっと時間をくったら,たちまち列車の時刻が迫り,大急ぎで金田一温泉駅に向かった。ぎりぎりタッチ(だが)セーフといった感じで列車に飛び乗った。
 再び本日の鈍行列車の旅が始まった。IGRいわて銀河鉄道は,青森県に入ると,青い森鉄道と名前を変える。目指すは,とりあえず八戸。そして,驚くなかれ,青森,秋田を通って羽越本線で日本海沿岸をひたすら南下し,きょうの深夜までに新潟まで行く予定なのである。だが時間はたっぷりある。まずは作家の生まれ育った町,八戸を見に行くことにした。八戸の旧市街地は,八戸駅から久慈へ向かう八戸線の2つ目の駅本八戸駅から少し離れたところにある。だから,鉄道で行くとなると,意外に面倒なのである。でも,冬の八戸となれば,やはりそうめったには来られないから,なんとか訪ねてみることにした。
 列車の接続は朝の時間帯だから,そう悪くない。ところが,日曜日だというのに,なぜか高校生がいっぱいで車内はむせ返っていた。本八戸駅は,古い小さな駅だった。きっと昔の面影がまだ残っているのだろう。駅舎はガラス戸でピタッと閉め切られていた。外は,天気はそれほど悪くなさそうなに,強風と横なぐりの雪だ。これが北国の海岸に近い土地特有の冬の天気なのだろう。傘などはじめから出さなかった。フードをかぶって,ただひたすら記憶していた三日町という中心街へ向かって歩いた。それは作家の家族に次々と襲いかかった不幸と,暗い血に悩む作家の青春へと遡るかのような道のりであった。やはり冬に来てよかった。
(つづき)
 八戸の市街地へは,本八戸駅から歩いて10分あまりだった。作家の生家は,三日町の表通りに店を構える呉服屋だったという。後年,どこかの雑誌で,故郷の生家を訪ねる企画があったそうで,そのときのことを書いた随筆を読んだことがあった。その地にかつての面影はなく,生家の跡には大きなデパートが建っていたと,ぽつりと一言書かれているだけだった。その文章を覚えていた。駅から真っ直ぐに海側へ歩くと右手に市役所があり,その先が旧市街地だった。三日町の交差点にさしかかったとき,右手の角に大きなデパートがあった。このあたりだろうと,直感的にわかった。ちょうどそのとき,デパートから成人式の振り袖を着た娘さんと母親が出てきた。まさにここに,昔大きな呉服屋があったのだ。なんという偶然,奇縁のなせるわざだろう。霙混じりの雪の降る生憎の天気だったが,私は思わずカメラを出し,なにかに促されるようにその一瞬の光景を撮った。


青森県八戸市三日町 1月14日・撮影

 私には縁もゆかりもない土地だが,作家の生家跡地をまるで他人の過去を幻でも追うかのようにじろじろと眺め回すのは,すでに生家は跡形もなくなっているとはいえ,なんだかとてもはばかられるような,恥ずかしいことをしているような気がして,わたしは居たたまれなくなり,そそくさとその地をあとにした。
 本八戸11:41発→八戸11:51着/12:02発→三沢→野辺地→浅虫温泉→そして青森13:40着。ついに青森まで来た。思えば遠くへ来たもんだ。東北本線の北の終点である。駅の跨線橋から周辺をながめていたら,かつての青函連絡船八甲田丸の黄色い船体が見えた。ああ,ここは青森駅であり,青森港でもあったのだ。人々は青森駅から青函連絡船に向かってぞろぞろと歩いたのだという。
 1988年,昭和63年,最後の青函連絡船に乗る計画を立てながら,ついに乗れずじまいだった。当時の生活を考えれば,のんびりとひとり旅などとてもじゃないけど考えられなかったのだから,いたしかたない。でも,そのころからの,いやもっと前からの鬱積がたまりにたまって,今ごろになって遅ればせながらささやかに,青春18きっぷの旅になって吹き出しているのかもしれない。
 鉄路は,ここから北は津軽海峡線である。何とよい響きだろう。口ずさみたくなるような名前だ。とりたてて当てもなく,特別な予定もない旅である。いくらでも変更のきく旅だ。津軽海峡線の次の列車に乗ればいいのだ。おい,乗れよ。乗ってみろよ。函館は海の向こうのすぐそこだぜ。もうひとりの私がけしかける。時刻表を見る。次の特急はくちょうは15時22分発,函館に17時33分に着く。この間青春18きっぷは使えないが,時間的には充分である。列車で北海道に渡るには,打ってつけのチャンスだ。
 だが,私は青森14:00発,奥羽本線秋田行きの普通列車に乗った。予定通りの行動だった。要するに私はそういう人なのである。しかし,このとき秋田に向かったことによって,これからどのような事態が待ち受けているかなど,そのときの私は想像だにしていなかった。列車が五能線との分岐となる川部駅に着こうとしていたころ,車内放送が,大雪と強風のため五能線の一部が運休し,代行バスの運行を告げていた。
(つづき)
 五能線の通る海岸線は,かつて白神山登山のとき車で走ったことがある。鉄道で旅するなら,ここは冬より新緑のころか夏がよいだろうと思っていた。だから今回はパスすることにしていた。とはいえ,五能線がすでに不通ということを聞き,これからの先行きになんとなく不安と不吉なものを感じた。五能線の到着を待って,数分の遅れで列車は川部駅を出発した。
 弘前駅に停車したとき,私は車中から黙祷した。弘前は,一昨年亡くなったKさんが学生時代を過ごした街だ。仕事上のつき合いだったが,それ以上だと思ってもいたから,そのころの底抜けに楽しい話をいろいろ聞いたことがある。遠くはなれていたとはいえ,見舞いにも行かず,電話で話すことも少なく,結局葬儀に出席しただけとなってしまった。無念の別れだった。お互いにまだ若いころ,京都先斗町で飲み明かしたことや,1回目の退院後,「ボクにはイレッサがメッチャよく効かはったんですよ」と高笑いする彼と2人で,快気祝いだとばかり生ビールの大ジョッキを8杯も空けたことが思い出された。ビール大好き人間のKさんだったが,やはりほろ苦い思い出である。最近はそんなことばかりだ。生きていくことは,悲しく,切なく,やるせない。
 列車はそんな思いを乗せながら走り続けた。外は吹雪だった。大鰐温泉→碇ヶ関→大館→鷹ノ巣→東能代→八郎潟→秋田と,少しずつ遅れを出しながらも,ときおりそれを取り戻すかのように猛然とした走りを見せ,列車はついに秋田駅に到着した。予定の到着時刻の17:27はとうに過ぎていたが,大幅の遅れではなかった。
 次の乗り換えの羽越本線酒田行き普通列車にも連絡すると車内放送していた。ダイヤはどの線も乱れ,駅の中はざわついていた。青森から秋田駅まで3時間半の乗車で,とにかくトイレに行きたかった。それに,弁当やビールの買い出しもしておきたかった。大急ぎでそんなことをしていたら,羽越本線のホームがわからなくなってしまった。行くと,もう別の列車が停まっているではないか,あああっ…やってしまった。乗り遅れてしまったよ。肝心なところでこれだからな。でも,なんか変だよな。私はすでに慌てていてわけがわからなくなっていたのだ。階段を上ったり下りたりして,別のちょっとずれたようなホームに行くと,もしかしたらそれが最初に行ったホームだったのかもしれないが,そこが羽越本線だった。だが列車は羽後本荘行きとなっている。オレは酒田行きに乗らなければならないのだ。ああ,やっぱり乗り遅れてしまったのだ。ああ,どうしよう…。だが,そのとき放送が流れた。羽越本線酒田行きは,雪と強風のため羽後本荘止まりになり,その先の酒田までは代行バスが運行されますので,羽後本荘より先に行くお客様はこの列車にご乗車くださいと。私はすぐにその列車に飛び乗った。要するに恥ずかしながら,「羽後本荘」という駅が,どの線のどのあたりの駅か知らなかったために,判断ができなくて慌てていたようだ。鉄道の旅でも,高速道路の標示でも,こういうことはよくある。旅行で,地名を知らないということは致命的なのである。
 私は座席のわずかなすき間を見つけて強引に座らせてもらった。青春18きっぷの旅の鉄則・その2,「必ず,どんなことをしてでも座ること」遠慮などしてはいけない,格好などつけている場合ではない,道中は長いのである。座るか立つかが生死を分けるのである。その直後,数名の一団がダダダーと走って来て,車内に飛び乗った。そして車掌を取り囲むようにして,ちょっとした騒ぎが起こった。
(つづき)
 一団の若者たちは,羽越線の運行状況とこの先の接続予定を,矢継ぎ早に質問というか,追及し始めたのである。彼らが必死だったのは,要するに今夜の新潟23時35分発の快速ムーンライトえちごに乗る予定だからだ。それに間に合うのか,いや何とか間に合わせてもらわなければ困る,ということなのである。私もまったく同じだった。一応,指定席券(510円)を買ってあった。
 私は座ったままじっと聞いていた。追及の手は,実に筋道が立っていて,こちらにも状況がすぐにわかった。おまけに声がデカイので迫力があった。車内での視聴率は100%であった。駅員も駆けつけ対応していたが,埒が明かなかった。要するに運休指令が出たばかりで,先の接続の予定など,車掌さんにはまだ十分わかっていないようだった。まあ,不確定な余分なことは一切言わないように慎重に発言しているのだろう。とにかく羽後本荘より先に行く人も,代行バスが酒田まで運行されるので,この列車に乗って下さい,の一点張りだった。それなら,発車時刻はとうに過ぎているのだから,さっさと発車すればよさそうなものを,なかなか発車しようとしない。各線の列車の到着を待ち,連絡しているのである。遅れた列車の乗客をすべて拾い集めているようすなのである。私は,これはもしかしたらヤバイのかもしれないなと感じた。すでに夜の6時を回っているから,このあとの列車はもう動かないのかもしれないな。冬の日本海側である。冬型の気圧配置になり,強い寒気が張り出してきているという。大雪と強風による運休などつきものである。秋田から新潟といえばかなり距離がある。ということは,この秋田駅でギブ・アップ,秋田新幹線に乗り換えたほうがよいのかもしれない。まだ,十分に今夜の内に東京まで帰れる。うむー,迷う。だが,私の腰は上がらなかった。
 ここから先こそ,今回の青春18きっぷの旅のクライマックス,そうメインエベントであり,最大の楽しみだったはずだ。冬の日本海を行く夜汽車なのである。行かねばならぬ,なにがあっても。まあ,そんなに力まなくていい,なんとかなるさ。いざとなれば駅前旅館だってビジネスホテルだってあるんだから。まさか凍死はしないだろう。行けるところまで行ってみることにしよう。そうこうしているうちに騒ぎは収まり,列車は発車した。「ムーンライトえちご組」の一団も乗車していた。
 車窓から外を見れば,雪は舞っていたが,猛吹雪というほどの悪天候ではなかった。列車は徐行するようなこともなく,一駅ごと北国の冬の夜の中を突き進んだ。
 羽後本荘駅は秋田駅から10個目だったから,列車は小1時間で羽後本荘に着いてしまった。急いで改札口へ行くと,駅員が乗客を代行バスへ案内していた。特に説明もなく乗客が乗る移ると,バスはさっさと出発した。当たり前のことだが,旅行客だけでなく地元の人もかなりいた。大型バスの席は半分くらいはうまった。長い列車の旅の直後だったせいか,バスのゆれがなんとも心地よく,バスの旅もいいもんだなあなんて呑気なことを思っていた。
 しかし,一駅ごと進むにつれて,バスは雪道や所々は凍り付いたような道を走った。タイヤにチェーンは巻いていなかった。スタッドレスタイヤだった。山道を走るわけではなかったが,カーブや上り下りもあった。ときどきハンドルをとられてすべっているような感じがした。真っ暗な田舎道だから無理もないが,道を間違えそうになったり,カーブで曲がりきれずに縁石に乗り上げたりで,運休した列車よりこちらの代行バスのほうがはるかに危ないのではなかろうかとも思えた。ふと先日の酸ヶ湯温泉での観光バス転落事故が頭をかすめた。バスは海岸線ぎりぎりの道路を走るところもあった。冬の日本海の黒い海が間近に見えた。だんだん不安になってきた。
 芭蕉の合歓の花の句で有名な象潟(きさかた)駅に着いたとき,時刻表を見た。まだ秋田県内である。酒田までの半分も来ていない。鉄道の駅を一般道を使って一駅ごと立ち寄るバスでは,やはり時間がかかり過ぎる。酒田駅に着いたら,特急を利用するしかないだろうと思った。酒田市内に入ると,今度は雪国独特の渋滞というかノロノロ運転が続き,なかなか駅に到着しない。
 ちょっと飛躍するが,日本全国に広がった鉄道網が,いかに重要な社会基盤であるかが思い知らされた。赤字だから苦肉の策として第三セクターになり,それでもさらに赤字が続くから,惜しまれながらも見捨てられ,廃線になる。必ずしも鉄道ファンというわけではないから,センチメンタルにはならないが,でも,この日本全国に張り巡らされた鉄道網をなんとか生かす方法はないだろうかと考えてしまう。
 かつて国鉄が,路線を次々に全国に広げていったのと,近年,高速道路やバイパス・林道が全国に伸びているは,どこか似ているという。道路に金をつぎ込むだけつぎ込んでも,いずれガソリンはやたらに高い,車も高い,おまけに爺さん婆さんばかりでスイスイ運転できる人や運転手も少ないという事態がすぐそこまで迫ってきているのだろう。いったい日本の交通と物流はどうなってしまうのだろう。なんて身の程知らずの大それたことを考えてはみたが,やはり,ドラエもんの“どこでもドア”しかないな…。
 やっとの思いで代行バスが酒田駅に着いたとき,最終的には10名ほどになっていたのだが,私もふくめた一団は,まっしぐらに改札口に向かった。だが,駅構内に人はほとんどいなかった。閑散として冷気が迫っていた。何が起こったのだろう。われわれはあまりのことに事態をうまく飲みこめず,改札口近くできょとんとしていた。
 だが,このあと,“大騒動”が起きたのである。
(つづき)
 事態が理解できたとき,一団は駅員を取り囲んで,いっせいにやり出したのである。
「冗談じゃねえよ! 運休だなんて!」
「何のために代行バスに乗ってここまで来たんだよ!」
「明日の朝,東京で待ち合わせしてるんだけど!」
「今夜の新潟発ムーンライトえちごの指定席取ってあるから,それに乗らなければならないんだよ!」
「ウッソー,困っちゃう〜!! ☆\(*`∧´)/☆!(~_~;) 」
まあ,これほどにぎやかではなかったが,みんないっせいに,口々に言い出したのである。駅員は要するに運休ですからどうしようもありませんとしか言わず,少し困っているようでもあった。だが,困っているのはこっちである。
 私は後ろのほうで聞いていたのだが,なんとなくそろそろ出番かなという感じがして,いちばん声のデカイやつの肩を後ろからポンポンと軽くたたき,「まあまあ,ちょっと待ちなさいよ,同じような人が他にもいるんだから,ここはひとつ全員に対して正式な説明をきちんとしてもらおうじゃないか」と,私は言った。もちろん“正式”というところに,力を入れたこというまでもない。だれもなにも言わなかったから,そのようになった。駅員は,といってもそれなりに年配の人だったが,なんとなく唾をゴックンと飲みこんでから話し出した。でも,要するに強風と大雪のため運休しているから,ここより先には行けませんということを,回りくどく話すだけだった。まったく説明にもなっていなければ,なんの役に立っていなかった。すぐにモバイルパソコンを取り出して,なにやらしきりに検索し始めている若者もいた。
「このあと,特急や寝台特急があるでしょ?」と私は聞いた。
駅員は「特急日本海も,寝台特急あけぼのも,すべての列車が運休になっています。」
 ガーン!!! である。そんなバカな! 待てよ! それはチョットおかしいぞ! そういうことなら,なんでもっとはやく教えてくれなかったんだよ! 私はここで心の中でちょっと小ギレしたのだった。他のみんなもたぶん同じだったのだろう。だから,いっせいにまたガンガン追及し出した。
 私は,言ってやった。運転状況について説明を受けたのは,今がはじめてなんだぞ! まるで乗り継ぎができるような雰囲気で普通列車も代行バスも案内されて,最後になって,はいダメでした!じゃあ困るんだよ。秋田駅で,発車前の騒ぎで,ムーンライトえちごに乗り継ぐ人が何人もいることは,車掌も駅員も確実に知っていたんだから,乗り継げないのなら乗り継げないとはっきり言ってもらわなければ困るんだよ。秋田でちゃんと説明してくれていれば,秋田新幹線に乗り換えていたんだから! と。これが最大の根拠だったと思う。そして,ズバリ,「われわれはこれから,どうすればいいんですか?」と聞いてやったのである。
 駅員には,言葉の真意が一応通じているようだった。酒田と秋田は管轄も違うので,ちょっと上と相談してきますのでと,駅事務所に入っていった。酒田駅の駅舎の中はしんしんと冷え込んでいた。
(つづき)
 駅員は,あっけないほどすぐに戻ってきた。そして,さっきまでの騒動がまるでウソだったかのように,「駅前のホテルを用意しましたので,これからご案内します」と事務的に言った。急転直下の全面解決である。なんか拍子抜けするくらいだった。みんながホッとして歩き出したとき,私は最後の駄目押しを忘れなかった。というより,ほとんど無意識のうちに言葉が口をついて出たのだ。「明日の朝の列車はどうなるんですか?」
 駅員は,まるで決まっていたかのように即答した。「朝一番の特急いなほに,新潟までご乗車できるように証明書を出しますので…」私はホッとした。これで本当にすべて解決だ。ムーンライトえちごの指定席券も払い戻して,しっかり510円を返してもらった。ああ,よかった。駅のベンチに寝ないで済んだ。あったかいホテルで眠れる。もしかしたら,いやたぶん,これは最高レベルの対応かも知れない。(^o^)
 駅員さん(もう,ここからは“さん付け”です!)を先頭に,われわれはまるで子供のように一列になって駅前のホテルに向かった。一団のメンバーがいつの間にやら少なくなっているような気がした。最後まで粘ったのは数名だった。
 外へ出ると,寒さはさすがに凍てつくほどだったが,雪などチラチラしているだけで,もちろん冷たい風は吹いていたが,強風というほどではなかった。やはり,あの最上川橋梁での列車事故が影響しているんだな…。
 ホテルのフロントに着くと,駅員さんは慣れた感じでホテルマンに二言三言話しただけで,「それでは明日の朝,特急に乗る前に改札口のほうにお申し出ください」と言って頭をちょっと下げると,さっさと帰っていった。
 チェックインの名前と住所を書いているとき,ああ,助かったなあ,とやっと実感がわいてきた。そして,自分の気が抜けていくのもわかった。他の人たちもきっと同じ気持ちだったのだろう。見ず知らずの他人だったのに,目の前に立ちふさがった共通の大問題が解決し,まるで一気に旧知の仲のような感じがした。誰が言い出すともなく,これからみんなで食事でも行きますか,と相成った。鈍行列車と代行バスに揺られた長い長い旅で,ろくに食う物も食っていなかったのだ。
 ホテルの中にレストランも和食もあったが,“青春18きっぷ派”としては,やはり外の安い居酒屋を教えてもらった。出ると隣が大手居酒屋チェーンの店だった。旅はハプニングがあるからおもしろいとはよくいう。まさに今回などその典型だろう。でも,このあと,旅にはそれとはまたちがった魅力があることを知らされたのであった。
(つづき)
 居酒屋に来たのは男ばかり4人だった。(女の子にはお誘いの声はかけていません。念の為。)夜10時を回っていたが,満席に近い状態で,小さな個室のような席に案内された。そこは普通列車の4人掛けの“コの字席”そっくりで,もちろんテーブルはあるが,膝をつき合わせて飲むといった雰囲気だった。鉄道で知り合ったわれわれにはピッタリだった。
 “大騒動”のなかで,われわれはすでに充分すぎるくらいの顔見知りだったが,実はまだお互いの名前を知らなかった。さっそく簡単な自己紹介をしたのだが,どうも変な感じがした。顔はもちろん,その人の話し方や声のデカさや,人柄だってなんとなくもうわかっているような感じさえする者同士が,あらたまって一人ずつ自己紹介をしていくと,どことなく白々しいような,こそばゆいような感じがしたのだった。すでによく知っている仲なのである。とっくに深い仲なのである。人と人との出会いとは,案外こんなふうに順序が逆になることがある。
 まずはビールで乾杯し,お互いの旅の“大奮闘”をねぎらった。こういうときの冷たいビールはことのほかうまい。もちろん全員,青春18きっぷで旅を続けてきた人たちだった。腹も減っていただろうし,ビールも飲みたかっただろう。まあ,そういう私がいちばん飲みたかったのかもしれないが…。全国あちこちから来ていた。旅好きで,なかなかの鉄道ファンや鉄道マニアのようだった。だから,話は当然今回の旅の話になった。
 ここに詳細は書けないが,要するに冬の日本海側の旅だから,列車の運休はまったく想定していなかったわけではないが,ずるずる遅延し,さらに延々と代行バスにまで乗せられ,結局最後になって運休です,の一言だけなんて,やはり納得できませんよね,という話になった。とにかく大変な目に遭いましたね,とお互いを慰め合った。でも,ホテルまで用意してもらって,明日は特急に乗れるんですから,まあ,不幸中の幸いというか,最高の対応でしょうね,なんて自分で自分を納得させたりもした。
 声がいちばんデカクて,しかも理論派&蘊蓄派の“鉄ちゃん”がおもむろに話し出した。やはり,2005年12月に死者5人を出した第2最上川橋梁での特急いなほ14号の脱線事故がかなり影響しているんですね。規制値以上の強風や大雪になれば,すぐに運転中止にするそうですよ。事故のあった砂越〜北余目間はこの酒田駅から2つ目ですから,羽越本線を北から来たら,何かあったときは,やっぱりこの酒田駅でストップになりますよねと,そんなことを話してくれた。
 私は,事故現場はてっきりすでに代行バスで通ってきたところだとばかり思っていた。だから,いつ最上川にかかる橋を渡るのだろうと,心配でひやひやしていたのだった。
 今でも,この鉄道会社のホームページを開けば,トップにこの鉄道事故についての「お詫び」がはっきりと掲載されている。われわれは,まるで絵に描いたようにピッタリと“冬の日本海側・羽越本線を行く青春18きっぷの旅・ズッコケ運休編”にはまってしまったのである。
 気象条件による運休だから,運休自体はどうしようもないといえばどうしようもないのだが,でも,乗客への早め早めの情報伝達がほとんどなかったことについては,みんな内心憤懣やるかたなしのご様子だった。そして,なんといっても明日の予定が心配でならないようだった。明日の朝,東京で待ち合わせをしている人もいた。かなり遠くから来ている人もいた。新潟から東京まで,夜行のムーンライトえちごに乗れないとなると,旅の計画は大幅にくるってしまうのである。
 私は,青春18きっぷを使った旅のノウハウやコツ,またどんなところが魅力なのかをいろいろ質問し,かなり教えてもらった。いつもサッとモバイルパソコンを取り出す一番若い“モバイル君”が言った。「青春18きっぷとは,“青春の18歳に戻れるきっぷ”っていう意味らしいですよ。」と。私には,息子と同い年の若者のこの言葉がとても印象的で,心に残った。なるほど,18歳に戻れるきっぷね。そうだ,18歳に戻ろう。18歳の戻るんだ。18歳のときにやりたいと思って,恥ずかしながらいまだにできずにいることをやろう。18歳のときの思いと志をもう一度取り戻そう。私がやるべきことはもうそれしかないだろう。そんな気がしていた近ごろだったから,この言葉はなおさら心に響いた。
 ビールが進み,話がはずむと,みんなはいつの間にやら仕事や会社のことなどを話し始めていた。明後日の連休明けの朝には,パリッとして会社に出勤しなければならない人ばかりだった。みんなれっきとした一部上場企業や大会社の,それは立派な社員だった。二十代の若者。三十代で近々独立起業をめざしているという人。三十代後半の独身の人も。最初の自己紹介での落ち着いた話し方や酒の飲み方などから,ちゃんとした社会人であることはわかっていた。だが,まさか一流企業の社員とは思わなかった。一流企業の社員が青春18きっぷで旅をしていることが,私には実に驚きだったのだ。
 正直を言うと,青春18きっぷで旅をしている人は,(自分がやり始めているのを棚に上げて,なんですが…)鉄道ファンやマニアの“鉄ちゃん”や“鉄子さん”は別にして,だいたいはフリーターやニートか,コミックマーケットに行くオタクか,キャリーバックを転がしながらコンサートに行くケバイ女子高校生か,あとは定年退職後の爺さん婆さんのなぜか4人組とか,さらにおまけはオレのような時間だけは自由なわけのわからない貧乏オヤジくらいだろうと,思っていた。確かに金持ちや時間に忙しい人はこういう旅はしないし,できない。新幹線か飛行機である。少し落としても高速バスである。ところが,過去3回ほどの青春18きっぷの旅で,そういう怪しげな独特の雰囲気をもった人たちをよく見かけ,遭遇したのである。なんせ青春18きっぷが超破格に安いきっぷだがら,それを使って旅をしている人もひとくくりにして,チョット風変わりな人たちというイメージで見てしまっていたようだ。
 モバイル君は言った。「会社は大きくても,若者の給料は安いんですよ。」と。遠くへ旅行したかったら,やっぱり18きっぷを使わないとキツイのだそうだ。でも,彼は行きは札幌まで飛行機だったようだ。その帰りに青春18きっぷを使って北海道から新潟まで来る予定だったのが,見事に運休にぶち当たったようだ。
 ところで,モバイル君がすすめる超格安航空券は,搭乗日前日にチケットショップで買う期限ぎりぎりの株主招待券だそうだ。これが一番安いそうで,今回もそれで来たそうだ。かなりの綱渡りだが,オイラも今度試してみよう。
 さて,モバイル君の給料が安いのか高いのかはさておき,彼は全然“貧しい人”でも,“風変わりな人”でもなかった。むしろどことなくリッチで自由な雰囲気を漂わせていた。それは気持ちが全然貧しくないからだろう。18きっぷを使った節約旅行のようではあったが,なんのけれんみもなく,屈託なく,青春18きっぷの旅をありのままに楽しんでいるふうだった。
 私は,彼らと知り合い,彼らと飲んで語らうなかで,青春18きっぷの旅をしている人たちに対する認識を新たにした。いろいろな人がそれぞれの形で使っていることを知り,自分がいかに偏見に満ちていたか思い知らされたのだった。
 彼らに比べて,オイラはどうだろう。青春18きっぷの旅行中は,なんとなく気恥ずかしいような感じがして,それと気づかれないようにしたり,それを隠そうとしたりしているところさえある。はっきりいえば,いい年をして,青春18きっぷなんかを使った貧乏旅行をしていると思われたくないという,見栄であろう。体裁や外聞や人目ばかり気にしている。旅に出たときくらいは,そんなコソコソしたくだらない虚栄心など,きれいさっぱり捨ててしまったほうがいい。そうすれば,オイラの青春18きっぷの旅は,貧乏旅行ではなく,貧しくとも心豊かでのびのびとした“清貧の旅”に生まれ変われるのではないだろうか。
 ビールがいつの間にやら日本酒に変わり,酔いが回るなかでそんなことに気づいた。もしかしたらこれが今回の旅の最大の収穫だったのかもしれない。
(つづき)
 居酒屋では,結局夜の11時過ぎまで飲んでしまった。楽しい話で盛り上がったということもあるが,やはりこういう予期せぬ大騒動を乗り切ったあとは,ある程度飲まないと元の普通の精神状態にはなかなか戻れないのかもしれない。われわれは,やはり相当な精神的エネルギーを費やしていたのだ。
 店から外に出ると,頬を刺すような寒風が吹きつけていた。明日の朝は,5:42発の特急いなほ2号に乗らなければならない。ちゃんと動いてくれればいいのだが…。5時15分にホテルのロビーで待ち合わせ,みんなでいっしょに駅へ行くことにした。もし私が起きてこなかったら,フロントから絶対にモーニングコールして起こして下さいねと,みんなに頼んだ。年寄りのくせに早起きが苦手なのである。
 部屋に入ると,どっと疲れが出た。特にたくさん飲んだわけではなかったが,だいぶ酔っていた。そのまま寝たかったが,簡単にシャワーを浴びた。体が温まって落ち着いたので,荷物を少し整理し始めたが,意味もなく出したり入れたりしてるだけだった。もう寝るのが先決だと思い,ベッドの目覚まし時計の設定をしようとしたのだが,これがいたって苦手なのである。アナログ人間である。やりかけてやめた。ケイタイの目覚まし時計の設定のしかたを早く覚えておかなければいけないなあ…,いや旅行用の小さな目覚まし時計を買った方が楽でいいかもしれないなあ…,なんてあれこれ考えていたら,めずらしくなかなか寝付けなかった。年寄りのくせに,いつもはお休み3秒なのである。
 朝4時半ごろに目が覚めた。まだ少し早いかなとも思ったが,ここでもう一度眠ったら,本当にヤバそうだったので,意を決して起きた。眠かった。年寄りのくせに1日7時間以上眠らないと全然ダメなのである。(←しつこい)
 カーテンのすき間から外を見た。まだ真っ暗だったが,雪は降っていなかった。風もそれほど強くは吹いていないような感じだった。よし,行けるだろう。そう意気込んではみたが,とにかく眠くて体が重く,まだきのうの酒が残っているような感じだった。
 フロントにおりると,まだ誰も来ていなかったが,しばらくすると4人が集まった。みんな眠そうだった。外に出ると,寒いことはさすがに寒いが,きのうよりはいくぶん穏やかなような感じがした。
 駅の改札口へ着くと,もちろん昨夜の駅員さんではなかったが,ひとこと言ったら,すべて承知してるとばかりにすぐに証明書を手渡してくれた。はがきより少し大きいくらいの用紙に手書きした写しだった。もう文面は正確には覚えていないが,強風により運転中止したため,酒田駅から新潟駅まで特急列車の自由席に乗車を許可する,ということが簡単に書かれているだけだった。私はそれを後生大事にポケットにしまい,5:42酒田発新潟行きの特急いなほ2号に乗った。われわれが乗った車両には,われわれ4人が乗っただけだった。
 なんとなく車両の中ほどに集まったが,それぞれ別々の席に一人ずつ座った。はじめのうちは,座席越しにちょっと話したりしたが,さすがみなさん睡眠不足とお疲れのご様子で,特に話もなくそれぞれがまた別々の旅人になっていた。
 余目(あまるめ)→鶴岡→あつみ温泉→府屋(ふや)→村上→坂町→中条→新発田(しばた)→豊栄(とよさか)と停車。そして,列車は予定通り7:49新潟駅に到着した。
 特急はさすがに速い。酒田から新潟まで鈍行に乗ったら4時間弱はかかるところを,約2時間で着いてしまった。いよいよ別れが待っていた。旅に別れは付きものだ。まず,東京で待ち合わせをしているという人が,新潟から上越新幹線で行きますのでと,慌ただしく別れた。
 私はこれからどうやって帰るか決めかねていた。新潟からの鉄道路線と行き先は,意外に複雑に四方に延びている。いままで,新潟へは車か新幹線でしか来たことがなかった。生まれてこの方,新潟駅から在来線の列車に乗ったことが一度もなかったのだ。だからどうも路線がよくわからなかった。
 “モバイル君”は特急の中ですでに検索していたようだ。新津,三条,長岡方面(信越本線)の普通列車は,結局長岡であとの列車と同じになるから,あとの列車に乗ればこの新潟で1時間近くの待ち合わせがあるそうだ。こういうとき,私はどちらの列車に乗ろうか迷い,心配になってだいたいは先の列車に乗ってしまう。彼らはあとの列車に乗るそうだ。だから,いたってゆったりしていた。そして,ちょっと改札出て,朝飯でも食べましょうか,となった。わたし1人では,こういうゆとりは出てこない。
(つづき)
 新潟の空はどんよりと曇り,いまにも泣き出しそうだった。駅前のビルの上には,清酒「朝日山」の大きな看板が見えた。3人で駅の食堂に入り,コーヒー付きの朝定食を食べた。あったかいコーヒーを飲み終えたころ,やっと人心地がついた。やはり飯はちゃんと食わなければいけないのだと思った。
 ここでまた,青春18きっぷの旅の鉄則・その3,「腹が減っては旅はできぬ。」たとえ時間がなくても,たとえ貧乏旅行でも,メシだけはちゃんと食わなければいけない。なぜなら,腹が減るからである。腹が減ると,ろくなことはない。まあ,当たり前のことだな。
 だから,時刻表をよく見て,乗り換えの待ち時間をあまり小間切れにしないようにするのだという。どこかでうまくまとまった時間ができるように乗り換えるのがコツのようだ。
 ちゃんと飯を食ったら,どうしたことだろう。中国地方のある都市から来ていた1人が,急に気が変わって,やっぱりわたしはここから新幹線に乗ることにしますと,変更を決めた。モバイル君と私は,朝飯を食ったら急に元気になり,逆に青春18きっぷを使った鈍行列車の旅を再び始めることを決めたのだった。
 確かに新潟から中国地方のその都市まで,普通列車で今日中に帰り着けるとはとても思えなかった。新幹線に乗って,時間短縮を先にやるか後にするかとなれば,やはり先にするのが当然だろう。モバイル君は関西だったから,どういうルートをとるのかまだはっきりとは決めてないようだったが,今日中に帰るのはかなりぎりぎりのような感じがした。私は,最短の上越線で行けば,夕方には東京に着けるはずだった。夜行の快速ムーンライトえちごに乗れなかったのだから,せめて鈍行を乗り継いで帰りたかった。
 そんなわけで,新潟駅でまたひとりと別れた。残ったモバイル君と私は,8:41発の長岡行きの普通列車に乗った。車中で1時間あまり,彼といろいろな話をした。若者との話はなぜか楽しい。彼の性格やしっかりした考えによるところも大きいが,やはりすべてに未来がある。ありふれた言い方だが,やはり夢と希望がある。
 なんとなく名残惜しかったが,長岡駅でモバイル君と別れた。私は年甲斐もなく小さく手を振った。彼ははっきりとは言わなかったが,北陸本線に向かい,冬の日本海側鈍行列車の旅を完結させようとしているようだった。そして,私はまたひとりになった。
(つづき)
 長岡駅から信越本線で直江津,長野を経由して東京へ帰ることもできれば,糸魚川まで行って大糸線に入り,松本,塩尻を経由して,中央本線で帰ることもできる。越後川口から長野までの間を飯山線を使うことだってできる。青春18きっぷを使って,普通列車で東京へ帰るとなれば,ずいぶんいろいろなルートが考えられる。
 直江津は懐かしい地で特に寄ってみたかった。かつて,20代のころ仕事で毎月出張に行った。前日入りだったから,いつも駅近くの古くて安い商人宿に泊まった。痩身の物静かな女将さんがいた。時間があったとき海岸まで歩き,生まれてはじめて冬の日本海を見たのも,ここだった。どんよりと鉛色に曇った空はそのまま海にとけ込んでいた。冷たい風が吹きつけ,雪がちらつき始めたかと思うと,思わぬ晴れ間がさしてきたりして,太平洋側の温暖な土地に生まれ育った者にとっては,それは奇妙なまでにめまぐるしい天気の変化だった。帰りに町の魚屋で刺身を一皿買い,それを肴に部屋で夕食までの間ちびりちびりと酒を飲んだりしたこともあった。そんな思い出の直江津に寄ってみたかった。だが,あまりの大ハプニングを無事乗り切ったあとだけに,なんだかすでに気が抜けて,今回の旅はもうなんとなく終わったような感じになっていた。やはり,まっすぐ上越線で帰ったほうがよいのかもしれない。10:32発,水上行きの普通列車に乗った。


新潟県小出付近 車窓より 1月14日・撮影

 列車は真っ白な雪原と化した水田地帯をひた走りに走った。手持ちぶさたで,車窓から雪景色の写真を撮ったりした。白一色のモノトーンの世界だ。越後湯沢に近づくと,あちこちの駅でスキー客の乗り降りがあった。雪の付いた板を持ったスキーヤーも乗りこんできた。普通列車ならではの旅の光景だ。そうだ,はじめてスキーをやったのも,このあたりの越後中里スキー場だった。30代半ばを過ぎたころだったと思う。小学生の娘をスキー教室に入れ,というか預けてしまい,初級ゲレンデだから大丈夫と,いきなりリフトに乗り,リフトから降りることも,滑り下ることもできず,ひどい目にあったことがあった。
 私は,旅をしながら,なんのことはない,それぞれの土地にまつわる私自身の昔のことをあれこれ思い出し,過去を懐かしんでいるだけではないのか。

(つづき)
 一人旅をしているときの私は,まるで後ろに目が付いているようだ。過去ばかり振り返っている。でも,それはそれでしょうがないのかもしれない。旅は新しいものを見たり聞いたりするだけではない。旅先の何かをきっかけに,ふと思い出がよみがえり,昔のさまざまな出来事を懐かしく思い浮かべる。そんな懐かしさにひたるのも,旅の秘かな楽しみのひとつだろう。旅情はどこか追憶や郷愁と深く結びついているような気がする。
 旅はもちろん空間を移動する行為だが,ゆっくりゆったりと青春18きっぷの旅をしていると,ときどき私の意識は時間を旅し始め,過去へと遡っていることがある。旅することは,時間を旅することに通じているのかも知れない。
 青春18きっぷの旅は,私にとっては,いうなれば過剰にゆっくりと空間を移動する旅だ。ゆっくり移動すれば,それだけ長い時間がかかり,時間をたくさん使うことになるはずだ。ところが,この旅では列車に乗っているときなど,することもなく暇で暇で,時間があり余っている。なんか矛盾するようなのだが,ここでは,時間はたっぷりありすぎて,むしろ消費されないような感じなのだ。必要とされる時間があらかじめ十分に割り当てられていて,それは使われることもなく,そのまま余剰となって余っているような感じなのである。飛行機での大急ぎの旅行や出張では,まったく逆の感じがする。短時間に長距離を移動すると,時間が凝縮されてしまったような奇妙な感じになり,距離感さえ麻痺することがある。細く切り取られた時刻だけが点在し,それが刻々と押し寄せているような感じなのである。
 青春18きっぷの旅をしているとき,意識は,そのあり余った時間を食べて,懐かしい過去の時間へとさかのぼることができるのかも知れない。今回の旅で知り合った“モバイル君”が言った,「青春18きっぷは,青春の18歳に戻れるきっぷ」とは,きっとこのことなのだろう。
 列車は,おりしも上越国境を抜ける清水トンネルにさしかかっていた。トンネルを抜ければ,雪国ともさようならだ。過去へと向かう暗く長い長いトンネルを抜けると,そこは明るい“未来”だった,というような人生を歩んでみたいものだ。
 私はその後も,青春18きっぷを使って普通列車を乗り継ぎ,夕方には無事東京に着いた。長い旅だった。いろいろあった旅だった。今回の旅で知り合った人たちは,皆無事に帰り着いただろうか。楽しかったなあ。ありがとう。
 今も,事務所の引き出しの名刺入れのいちばん上には,“モバイル君”の名刺が置かれている。 (完)


*この内容はフィクション(虚構,作り話,ウソ)です。登場する人物,会社名は実在するものとはいっさい関係がありません。

(2008.1.26,27,2.2,10,11,19,22,3.9,10,20,21,25,30,31更新)

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